波羅葦僧 [その他]
「天国ってこんなトコ」
みたいに断言できる人は、たぶんこの世にひとりも居ない。
でも、ですね。
なんか漠然と「こんなカンジ」みたいな印象を、なぜか誰しも持っているような気もします。
まあ、誰しもっつっても、別に世界人類約66億調査とか国内でさえっちゅーか都道府県でさえっちゅーかご町内レベルでさえ統計とかしてないっちゅーかむしろ一切調査なんかしたワケではないので、
少なくとも私の周囲では「察するにそんな気がします」というか「なんとなーくそんなカンジがします」かな?
ちなみに、
私は「地獄」に堕ちにゃならんような悪さをしてきた覚えは無いので、死んだら「天国」に行きます。たぶん(^^)
この「天国」とか「地獄」って概念、
日本だと、なんとなくキリスト教伝来以後登場したっぽいカンジがしそうな気がするんですが、
だからって現代日本の一般的と言って良いであろう「天国」と、ユダヤ的というか、カトリックやプロテスタント的、もっと言うとイスラム的であったりもする「天国」とは違うものであるような気がします。
聖書とか諸々教典的に捉えると、「天国」ってのは、恐らく基本的には「楽園」(アダムとイブが追放されたトコ)への回帰の概念からの発展であって、
そこに、今日に至るまでキリスト教以前以後の様々な概念が入り混じって内容の変化してきた言葉であるのだろうと予想され、
一応対義語的な扱いになっている「地獄」ってのも、別にユダヤ教発祥ではなく、アルトリア(ローマの前)くらいまで遡るとだいたいの原型が掴める概念なのだとか。
どうやら、これらは発祥もバラバラなら、いわゆる「一対の概念」でもなんでもでないようです。とりあえず。
つーか、
キリスト教に於いては、
「患難時代」っつって、どうやら世の中がすげー悪くなった後にキリスト様が御復活なさる。
この時全ての死者が蘇り、神を信じる者は選ばれてキリスト様とともに「千年王国」とやらに復活し悪魔が閉じ込められている千年間限定で安らぎを得るが、この時選ばれなければ、、、とりあえず「地獄」に落ちる?このへん曖昧な気がします。
更に、千年過ぎると閉じ込められていた悪魔が復活し、それに惑わされると悪魔や「千年王国」ごと焼き尽くされ、「白い御座」の審判によって「ゲヘナ」(火の池)へ堕とされる。
その後も残れると「新天新地」、すなわち、新しい世界で幸せになれる。
というものすごーく大まかな流れがあるように思われるので、
「新天新地」が「天国」にあたり、「ゲヘナ」ってのが「地獄」にあたるような気が私はするんです。が、、、
どうも、こう、、、
なんちゅーか、判然としません。正直(^^;
宗派によっては「地獄なんて無い」とする立場もあるようですし、死後不滅の魂を与えられるのは「限られた人」ってことになっているのが基本であるような気もするので、
ヒンドゥー教やゾロアスター教的というか、ぶっちゃけ仏教的というか、万人に不滅の魂があって生前の行いがうんたらかんたらってな「因果」の概念を持たない宗教だと、天国も地獄も初めは関係無かったみたいなんですね。
「楽園」と「天国」はともにキリスト教的には"paradise"でひと括り「だと思われる」であろうかと思われますが、「楽園」と「天国」は、私が思うに概念として違うもの。
たぶん、"paradise"に於いては「選ばれてそこに復活する権利を得られるかどうか?」が問題であり、そこには「天国的」な概念を見出せても「天国」は無く、あくまでも「楽園」への復活を目指すのが目的であり、
また、不滅の魂が万人に無ければ「善き行い」を以って神様に選ばれない限り消滅するだけなので、故に、そこに「地獄」は存在しない。てゆーか、たぶん「存在しなかった」のではなかろうか?と思います。
この「天国」とか「地獄」ってのを、
日本で馴染みのというか、お釈迦様的にというか、なにしろ大まかな仏教的概念に置き換えようとするならば、
「極楽浄土」と「六道」
になるのだろうと思います。
六道ってのは、
バラモン教、いわゆる古代インドのヒンドゥー教的位置にあったと思しきヴェーダの宗教の頃(紀元前13世紀)くらいからあったようなんですが、
派生対立宗教と言っても良いのであろう仏教にも色濃く残った考え方で、
天道
人間道
修羅道
畜生道
餓鬼道
地獄道
の六つから成り、
人は、というか人の魂?は、この六つの道、「世界」を「因果」によって永遠に彷徨うものであるのだとか。まあ、基本的にっちゅーか、かなり大まかに。
とりあえず、ここで「地獄」は既に登場しているのですが、「天国」にあたる「極楽浄土」はこの「六道」登場のずーっと後まで登場しないみたいです。
「極楽浄土」ってのは、阿弥陀様の仏刹のこと。
仏刹ってのは、仏国、浄土ですね。仏様がいらっしゃる清らかな世界。
仏様ごとに数多の浄土が存在するので、その浄土のうち阿弥陀様の浄土を指すのが「極楽」、「極楽浄土」であるらしいです。
この「極楽浄土」ってのを持ち出したのは、恐らくお釈迦様で、
ほら、六道輪廻って、なんか詮無いでしょ?死んでも死んでも終わらないし、いくら報われてもゴールの無い輪廻ぐるぐる永遠の価値観って。
だから、「解脱」ってのが登場してくる。
生きているうちに悟りを開き「仏陀」となることで死後六道輪廻の輪から逃れ、極楽浄土へ行く。これが解脱です。
ちなみに、
本来は「仏陀(覚醒した者)」になることを「成仏」と言うハズなんですが、私の周辺では死んでから安らかに「天国」へ行くことを指して「成仏」と呼んでいるような気がします。
私自身この「成仏」という言葉をそういう使い方しかしません。
もうひとつ。
日本でお馴染みの神道に於いては、
死は「穢れ」であり、死者は現世と繋がった「黄泉の国」へ行くか、
あるいは「死霊」となり「草葉の陰」から子孫を見守ることになる。らしいです。
墓石は、一説にはこの「死霊」が血迷ってさ迷い出てくることを防ぐための重石の役目であったのだとか。
んで、
魂は子孫の記憶に残り、やがて忘れられると混沌へと還る。決して不滅では無いとされているようです。
ただ、
現代神道になると、いつどこでどうなったのか、あるいはそもそもそういう思想もあったのかなかったのか判然としませんが、
なにしろ「高天原」という神の国へ行くっていう、いわゆる「天国」思想もあるらしく、対として?「黄泉の国」を「地獄」と捉えることもあるらしいので、というか今はそっちのがどうも主流っぽい気がします。
えーと、ですね。
あんまダラダラ書くのもアレなんでまとめると(^^;
「天国」とか「地獄」ってのは、ある意味「ゴール」として、
ゲーム的にいうならクリア後の「エンディング」として用意された概念であるような気がします。
「天国」がグッドエンド。その対として「地獄」というバッドエンドがある。
恐らく、多くの宗教多くの宗派に於いて、様々な名称、そして概念としてこの「ゴール」は「採用」されているような気がします。
なんちゅーか、まあ、色々便利ですよね。「天国」とか「地獄」って考え方。
善き者は報われ、悪しき者は罰せられる。しかも相手は神様だ。どんな強面だろうがどれほどの権力者だろうが、どいつもこいつも敵うわけなんかない。なんつーか、それなんて勧善懲悪。
信者が判り易いというか教える側が御し易いというか。ね?
だもんで、どうも色んな矛盾を含めたまま様々な宗教で様々な概念として現存しているみたいな気がします。
んで、今現在以ってきっと確固たる概念として定まってもいないのではなかろうか?と「思われます」
と、ゆーよーな御託を踏まえて頂いて、ですね。
私こと川端、思い起こせば生家近所の神社で名前を頂き、浄土真宗の家に育ち仏壇に手を合わせ、なぜかカトリックの学校にも通い、真言宗的般若心経を好み、レゲエを聴き、現在は特定宗教に傾倒していません。
たぶん、一生ひとつの神仏を崇め奉り信心することも無いような気がします。
が、
だからって、神様とか因果とか、あるいは魂とか、そういうのを信じないとか否定しているワケでもない。私は神様って「在る」と思っているし、因果に左右されて生きている実感もあるし、自分は魂を持っていると信じてる。
けれど、科学はある程度万能だと信じてもいる。
なんちゅーか、
有神実感的科学万能主義者?みたいなカンジだと自分では思いますm(_ _)m
さて、
アタシャ、死んだらどの「天国」に行けばいい?
てゆーか、
どうやら、「天国」も自分で選べるみたい?(^^)
おしまいm(_ _)m
わたくし、小学4年か5年のときに、
「ああ、これが・・・」と、はじめて感じた瞬間がありました。
たしか四月か五月で、校庭での朝礼が終わり、
教室へ戻る途中、渡り廊下の植え込みの雑草の上に、
なぜか、ごろんと仰向きに横たわった瞬間でした。
青い空、白い雲、雑草の匂い・・・
その瞬間に感じたことを、ずっと追い求めてたのかも知れません。
川端さん同様、(浄土真宗でなく真言宗、カトリックでなくプロテスタントの学校、レゲエでなく「オリエンタルカレーの唄」でしたが・・・)いろんな宗教に影響を受け、特に学生時代は、それなりに探求もしたのですが・・・
ま、結論としては・・・
河原のキャンプで、小学生当時と同様のシチュエーションになった時に、
「わははは、しあわせじゃあ!!!」と・・・(^_^;)
by 98k (2009-03-21 01:56)
>98kさん
私は、学生時代。
非常にありがちパターンというか(^^;
一人旅の最中に「ををっ!これが・・・」でした。
んで、「これ」の正体が知りたくなって色々しましたが、
結局、物理が支配するのが「この世界」なんだな?
みたいな感想のまま今日に至っていますm(_ _)m
宗教的な神様って、国とか土地とかでゼンゼン違う。
私は、日本的というか、神道的な神様って身近で好きです。
基本的に支配されないし、人間が歪曲しければ寛容だし、なんなら皆いつか神様になれるし、魂はちゃんと消滅できる(^^)
ついでに、
道教流れだと思うんですが、「魂魄」という考え方があります。
ものすごーく大まかに、
「魂」(こん)は、精神を支える「陽の気」
死後肉体を離れ、天に還り、
「魄」(はく)は、肉体を支える「陰の気」
死後も肉体に宿り、地に還る。
「魂」はいわゆる魂(たましい)で、精神を示す概念かと思われますが、
「魄」は「生まれながらに持っている体の設計図」という意味合いだと考えられるのだとか。
私は、
「魄」って、結局遺伝子的な概念を表す言葉であるような気がします。
なんていうか、
「人間」ってのを突き詰めれば、どうしても科学が顔を出す(^^)
ただ、
「無」
ゼロですね。全てが「無」という可能性。
それが「存在しない」もしくは「存在しなかった」と証明でもされないことには、科学は万能と断言できないような気もするんですけれどm(_ _)m
by 川端 (2009-03-21 10:08)