SSブログ

世迷い言 [その他]

C.S.Iがまだラスベガスしかなかった頃、

チーフのギル・グリッソムがこう言った。


"There's three things I got a real problem with:

 Guys that hit their wives,

 sexual assault on children

 and the scum that deal death to kids."


確か日本語だと、

「私には、この世に許せないものが三っつある。

 妻を殴る夫。

 子供への性的虐待。

 そして、子供達に麻薬を売るカス」

こんなカンジだったかと。


まあ、言い得て妙。

でも、私には「許せない」、もっといっぱいあったりしますが(^^)

 


さて、

ごくごく個人的な、ちっちゃなカミングアウトをひとつ。


私の抱く人生最大の疑問は、

「なぜ、ひとは、安穏にばかり暮らすことを許されていないのか?」

であります。


自分で書くのもナニっちゅーか、どーでもいいっちゃあこれ以上無いくらいにどーでもいい、ぶっちゃけ馬鹿みたいな疑問ですが、たぶん子供の頃から思ってはいた。

で、あたりまえですが、いまもって解けません。


なぜ、病気になるのか?

なぜ、怪我をするのか?

なぜ、飢えるのか?

なぜ、乾くのか?

なぜ、眠らねばならないのか?

なぜ、老いるのか?

なぜ、命は尽きねばならないのか?


生れ落ちた瞬間から、不快、痛み、苦しみ、そういうものに触れるたび、頭に浮かぶ、


なぜ?

 

まあ、やがて生命が尽きるのはいい。

こればっかりは仕方ないというか、順番というか、個人的には、永遠に生き続けるのって、たぶん凄く退屈なんじゃないかと思わなくも無い。

いや、まあ、特に早く死にたいワケでも無いんですケドね。


で、年老いていくのもいい。

ゆっくりと衰え、和やかに生命を終わらせられるなら、苦しまずに終焉を迎えることが出来るのなら、それもいい。ちなみに老衰で果てるのが夢です(^^;


けれど、

病気や怪我、餓えたり乾いたり、そういうのって、なんちゅーか、益が無い。

たぶん辛いだけのような気がする。

ぶっちゃけ、てゆーか、心底「いらねー」と思うのですよ。


なんで、辛いのって人生にデフォ装備なんでしょうね?

 

例えば、

生まれた瞬間から病気の人もいる。生まれた瞬間から五体満足でない人もいる。

だからって幸せになれないわけじゃないけれど、健常だから幸せってわけでも無いけれど、けど、ハンデキャップであることはきっと否めない気がする。

そのハンデは、どうして、何の為に、あるの?


暴力ってのもある。

なぜ、それはあるの?何の為になくちゃならないの?

 

人間以外の生き物もそう。

なぜ、奪ったり奪われたりするの?

なぜ、食物連鎖なんてものがあるの?

なぜ、ただ生きることを許されない個体がいるの?

 

もしも、もしもだけれど、神様なんてのがホントにいるのなら、いや、いなくてもいい。物理法則でも何でも構わない。


なぜ、ひとは、生き物は、みな同じように五体満足で健康に生まれて、病気も怪我もせず、餓えも乾きもせず、他者に害も為さず為されず、ただテロメアが消滅するまでの日々をすら生きることが出来ない?

どうして、世界はそういう風に出来ていない?生き物がそう進化しなかったのはなぜだ?

 

その昔、「そういうものだ」とオトナの人は言った。

でもね、それは何の理なの?どうして人間は、生き物はそもそもそういう存在であるの?


なぜ、ひとは、好きな人と好きなことをして、安穏に、平穏に、そういう毎日をただ暮らせるように存在していない?

 


なぜ?

 

 

まあ、

一生解けない疑問であること、というか詮無いというか、意味が無いというか、疑問ですら無いというか、そういう無為な類の疑問であることは解かっているのですが、

でも、私には謎なんですね。昔からずーっと。

 

たぶん、これからもずっと。

 


おしまいm(_ _)m


nice!(0)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

コメント 6

monozof

ふうむ、我々が自分も含め生物として認識しているモノ、ですか。
確かに物理的に考えるとなんとも奇妙な存在ですよね生きモノって。他のモノに比べ安定しないったらありゃしない。
その中でもヒトは”考えるモノ”と言う一番ヘンテコな存在なのだなあと私は認識しています。
と言うわけで、私もヒトらしく何か考えてみる。
えーと・・・・・・傘がない。
by monozof (2007-10-17 21:13) 

川端

>monozofさん


>>考えるモノ

ラスカル・・・じゃなくて、オスカル。いや、マイカル。ラジカル、ちゅーかフィジカル、むしろアイロニカル・・・ もぉいいっスね(--;

パスカルみたいですね(^^)


>>傘がない

私にもありません。毎日が精一杯(^^;



えー、せっかくコメント頂いたので、なにか・・・

えーと、、、


そうだ。傘つながりで日傘、パラソル。


パラ、 "para" はラテン語で超越、超えるモノ。ソルは太陽。

太陽を越える、防いでしまうという意味合いで日傘はパラソルと名付けられたのだとか。

錬金術で有名なパラケルススのパラも同じで、
古代ローマの医師であり政治家でもあった優れた人物「ケルスス」を越える者という意味合いで、後年自ら名乗ったのだそうです。


錬金術はある意味化学。

葡萄から金を造ろうとした錬金術師がブランデーの誕生に貢献した。なんてのは有名なお話のひとつでしょうか、、、


m(_ _)m
by 川端 (2007-10-18 08:10) 

98k@悟りの人

ふう・・・川端さんとやら・・・

微熱に悩みながら、徹夜で考え抜いて、
たった今、この疑問への答えのヒントを、
本日のわたくしの記事にアップしましたぞ!!! げひげひ
by 98k@悟りの人 (2007-10-20 08:03) 

川端

>98kさん

疑問、あくまでも疑問、です。


宇宙空間の終わりは?その先はどーなってんの?とか、

素粒子の素粒子の素粒子は?更にその素粒子は?やがて質量ゼロなんてな素粒子が本当に存在するの?じゃあ、質量の無い素粒子を構成するものはなに?つか、そもそも質量ゼロがいくら集まっても質量ゼロじゃん?とか、

時間って本当に存在するのか?いわゆる過去や未来って、物理的な現象であるの?ちゅーか、だったらそれこそ平行世界とか立体を超えた物理法則の異次元とかいずれ出てくんの?とか、

そういう類の疑問ですね。好きなんです、ただ単に(^^;


形而上でのみなんとなーく解決するか、循環に陥って判断を停止するか、いずれにせよまずは「現実」が目の前に横たわるので、

monozofさんの仰るように解決可能な「目の前の雨の為の傘」の心配をするほうが先で、考えても益体が無いというか、あまり実生活に意味が無く。でも、実は解決するとあるいは実生活や価値基準まで大きく変貌するかも知れないという。。。


と、いうか、ですね、、、

判断を間違えていたら大変申し訳ないのですが・・・
ご心配賜ってしまいましたか?なんとなく。。。

えーと、

まあ、ヒマがありませんが、日常何も問題はありません。
知人の不幸も無いです。いや、むしろ祝い事待ち。

ちとカゼが長引いてセキが止まりませんが、まあ、健康です。

えー、えー、えーと、、、


ありがとうございましたm(_ _)m
by 川端 (2007-10-20 09:42) 

TOMO

生老病死、悩みは尽きませんね。

宗教に逃げる・・・・般若心経に救いを求めるとか。

う~ん、川端さんらしくない・・・・。

目の前に横たわる現実を優先する・・・・、

そうだ、ご飯を食べましょう、とりあえず。
http://frui-market.blog.drecom.jp/archive/51
by TOMO (2007-10-20 12:19) 

川端

>>TOMOさん

んじゃあ、アタシらしいことを書いてみましょう。


相も変わらず私が思うだけ。ですが、

私は宗教的なものの考え方の有益な面、宗教そのものの良い面を否定しません。

むしろどっちかってーと好き。あるいは人様にすら推奨していると自覚しています。

が、

宗教思想なんてのは、「良さげ」な部分を自分なりにチョイスして、都合の良いように理解し、現社会に於いて人間として許される範囲で毎日を楽しく生きる為に利用するに過ぎないものであるとも考えています。故に特定の宗教教義を信奉することが出来ません。


そもそも、宗教思想の根幹は「無かったこと」であります。


それは、

死後とか来世とか、そういう「次」を捏造することで、現世、今、この瞬間を価値の低いものだと貶めかねない。

昨日まで、あるいはたったいままで、自分なりに生きてきた時間を否定しかねない。

どんなかたちであるにせよ、未来、それも生きている間ではなく、その先の未来を「ある」と定義することで、現状の価値を下げ、否定し、それを以って「いまを耐える」

いつか「いま」を「無かったこと」に出来る。だから、「いま」を我慢しろ。そういう示唆ではないだろうか?と、思われます。


それしかない、次の人生への希望にでもすがるしかない過酷で劣悪な生涯に陥れられてしまったひとであるならいざ知らず。いまの私はヌル~い人生なので、そんな風に考えると、なんちゅーか、宗教って馴染まないんですね。


私は、覚えちゃいませんが、20年前に受けたのかも知れない心の傷が、10年前に受けたのかも知れない屈辱が、そして、それと背反する今日までの幸福が「わたし」であると思うので、今日まで積み重ねてきた「自分」を否定するようなものの考え方は、どうしても好きなれません。


まあ、人様がなさっているぶんには、自分や自分の周囲の人に害さえなければ、それこそ「どーでもいい」ですケド(^^)


ご清聴、ありがとうございましたm(_ _)m
by 川端 (2007-10-20 15:58) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

快適の条件晴れたら ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。