Gun Finger [その他]
「こっれは、ヤバいでっ♪(^^)」
そう言って彼はi-Podを取り出し、とても嬉しそうに音楽を再生してみせる。
その表情を、
私は、心底眩しいと感じた。
ああ、そうそう。
まずは、とりあえず説明をさせて下さい(^^;
前回チラッと出て来ましたが、「クレオール英語」ってのがあります。
"creole" 「クレオール」とは、
歴史上発生派生が複雑なんで一概に説明できるものではないようなんですが、
ネグロイドとコーカソイドの「混血」の方々、あるいは「植民地生まれの白人」の方々を指す言葉としても用いられてきたようで、
恐らく一般的には「異なる言語や文化などの混交現象」を意味する言葉であり、
例えば、移民の都合複数の国々の食文化に影響された米国生まれの料理のジャンルにも「クレオール料理」なんてのがあったりもします。
「クレオール言語」とは、
異なる言語間で意思疎通のために生み出された「ピジン言語」が世代を経て母語化した言語の総称。
"Pidgin language" 「ピジン言語」ってのは、異言語間での意思疎通のため自然に作られた接触言語であり、
例えばその始まりは、間違っているのかも知れませんが、終戦後の「ギブミーチョコレートやで。ギブミーしてんかっ!」みたいなことであるような気がします。たぶん(^^;
恐らく同時多発的であり、非体系的なものを条理せねばならず、どうしても明確な区分が難しい部分を含むようなんですが、
「ピジン言語」が世代を経て条理され、統一的で複雑な意思疎通を可能とする自然言語並みの言語として母語化すると、それは「クレオール言語」と呼ばれるようになり、
中でも英語との混成である言語は「クレオール英語」と呼ばれます。
ジャマイカの公用語は「ジャマイカ標準英語」と呼ばれる英国英語文法を基とした「英語」らしいんですが、
「ジャマイカ・クレオール」あるいは「パトワ」と呼ばれるアフリカの言葉や英語などの交じり合った「クレオール英語」もダイグロシアとして使用されているのだそうです。
ダイグロシアってのは、例えば支配的多数を占める公用語的な言葉と地方的口語のように互いに異なる機能として行われる社会的な二種類の言語の使い分け。
日本だとアイヌ語や琉球語なんかがこれにあたるのだと思います。
フランス語で "Patois" 「パトワ」というのは、日本語だと「田舎言葉」というような意味らしいのですが、概ね「有力言語に対する少数言語」というような意味として使用される言葉であるようで、
その他のクレオール言語を指して「パトワ」と呼ぶ場合もあるようなのですが、1930年代中頃から、特にジャマイカ独自のクレオール的な英語を指す言葉として「パトワ」が用いられるようになり、
やがてジャマイカのクレオール的な英語が「ジャマイカ・クレオール英語」と分類されるようになった現在にあっても、
「ジャマイカ・クレオール英語」は「パトワ」と呼ばれているようです。
そんな「パトワ」を使用する中で、
例えば、"We" という言葉を "I&I" と変化させるように、ラスタファリアン達は独自の英語表現を生み出しており、
故に "REGGE" の歌詞にはたくさんの独特なラスタファリアン的英語表現が含まれています。
説明終わりm(_ _)m
さて、
先だって知人の息子(中学生)が、私に「これヤバい」ってなことでジャパニーズレゲエを何曲か聴かせてくれる機会があったのですが、、、
私は、ジャパニーズレゲエアーティストって言われても、正直KajaかPUSHIMくらいしか浮かばない。
もーちょっと頑張ってみても、それこそ三木道山の「一生一緒にいてくれや~♪」とか、誰が歌っていたのか知りませんが「ジャンジャンバリバリジャンジャンバリバリパチンコメーン♪」とか、人で言うと、MINMI、湘南の風、、、とか?みたいな。。。
どうやら自殺してしまったそうですが、TERRY THE AKI-06の「ナイナイマネー」に至っては、完全に和製ラップなんだと思ってましたし(^^;
よって、彼の示してくれた音楽は、
馴染みが無いというか、学生時代「ワールドもいいぜ( ̄ー ̄)b」なんてなことでヌスラット・ファテ・アリハーンとかのアルバムを初めて聴かされた時のようなというか、なんちゅーか、どの曲も全部同じに聴こえてしまうというか、
素直に、私には解かり辛い音楽でした。m(_ _)m
たぶん、アタシが好きだった頃のレゲエは、政治的あるいは民族的なメッセージを含むことの多いダブ・ポエトリー、愛や恋を歌うラバーズ、あとラップ的な要素を取り込んだDJスタイルくらいしか枝分かれしてなくて、それほど複雑なカンジじゃなかったような気がするのですが、
どうやら「イマ」それらは「ファンデーション」と呼ばれ、基礎的なレゲエミュージックとして扱われ、
なんか「ダブ」という言葉だけでも解釈次第でいくつもジャンル分けされてしまうようです。
しょーじき「イマ」の「レゲエ」は、おっちゃんにはもうわかんねーような気がしました(^^;
んで、ですね。
私にとってはこの中学生から初めて教わった言葉になるんですが、
"Gun Finger"
今回の記事タイトルになっとりますが、こんな言葉をご存知だったでしょうか?
それは、人差し指と中指を揃えて伸ばし、親指も立てて、拳銃を表現した手の形。
これを、あたかも銃を天に向かって放つように突き上げ揺らす。
それが "Gun Finger" なのだそうです。
「現場」と称される、主に「レゲエ」のライブイベントに於いて、
サウンド・システム(この場合は音楽グループ的な意味合い)達の奏でるリディム(リズム。この場合は「レゲエ」独特もしくはそれに近いリズムの意)に対して、
「ヤバい」と賞賛を贈る手の形を「ガン・フィンガー」あるいは、「パトワ」を意識してなのか「ゴン・フィンガー」と呼ぶ。
由来は諸説ながら、
ジャマイカのライブイベントで喝采の代わりに空砲を打ち鳴らしたのが始まりだと言われているのだそうです。
まあ、なんちゅーか、
"REGGE" って、マリファナなんかつきものなカンジで、昔からそんなにガラの良い音楽でも無かったような気はするのですが、、、
手はともかく、空砲はホンマかいな?(^^;アブナイヤロ?イロンナイミデ・・・
彼の曰く、
彼の聞かせてくれた音楽は、"REGGAE"ではなくカタカナの「レゲエ」
いわゆるジャパニーズ・レゲエ。略して「ジャパレゲ」であるのだそうで、
「イマ」は、まるで「パトワ」が「パトワ」であるように、独立したクレオール言語の如く「レゲエ」という音楽が日本の「現場」に在り、
それを好きだと感じる人々を魅了しているようです。
まあ、ロックだって同じようなモンですわな(^^)
本当に、
本当に楽しそうに私の知らない「レゲエ」の世界について語ってくれた彼は、
自身音楽を創る者でもあり、将来はアーティストでは無くとも音楽関係の職に就きたいのだそうで、
その瞳には、
もう私には無くなってしまったような、とても透き通るような、そんな光が宿っているような気がしてなりませんでした。
音を楽しむのが音楽であるのなら、彼のように好きな音楽を楽しんでいることこそが本当の音楽なのかも知れませんm(_ _)m
てなワケで、
私には難しいような気もしましたが、「レゲエ」
音楽もある意味「習慣」だと思うので、しばらく聴いてれば馴染んできて、私にもその良さみたいのも解かってくるかしら?
そんなに楽しいものであるのなら、いっかいくらいは「レゲエ」のイベントを体験してみたい気もしたな(^^)
おしまいm(_ _)m
Gun Finger "One Love" [その他]
リック・デッカードはユニコーンの夢を見た。
「ふたり」は、幸せになれたのだろうか?
さて、
前に "Jah Guidance" なんてな記事を書かせて頂いてたりするんですが、
ってー、ああ。そうそう。
特に詳しく調べたわけではありませんが、 "Jah Guidance" 「ジャー・ガイダンス」ってのは、「神様のお導き」みたいな意味だと思って良いと思います。
"Jah" は、ラスタファリズムに於いて、広義には「神」、狭義には「ハイレ・セラシエ」を意味するものであろうかと。
あと、前の記事でハイレ・セラシエ「3世」って書いてありますが、「3世」は誤りであるようです。すみませんm(_ _)m
一概にそうだと言い切れるものでは無いようなのですが、
もともと "REGGAE" は、ジャマイカの "Nyahbinghi" 「ナイヤビンギ」というお祭りの音楽だったと考えても良いのではないかと私は思います。
ジャマイカで「ナイヤビンギという白人をアフリカから追い出すための秘密結社をハイレ・セラシエが作った」という風聞が流れ、それがそのまま「ナイヤビンギ」と呼ばれるラスタファリアンの音楽を伴う集会になった。
というような風聞を聞いたことがありますが、
資料もありませんし、ググっても良く解からない。故に真偽の程が定かで無いながら、
かつてクレオール(クレオール言語。異なる言語間で意思疎通のために生み出されたビジン言語が世代を経て母語化した言語)英語の授業かなにかでジャマイカにラスタファリズムが登場する以前から「ナイヤビンギ」と呼ばれるお祭り、もしくは、もしかすると名前は違っていてもそういう音楽を伴うお祭りがあった。
というようなことを聞いたような気もしますので、
「ナイヤビンギ」のルーツに関しては定かで無いながら、そこに "REGGAE" が欠かせないものとなっており、
かつ、その根底にはジャマイカの人々が虐げられてきた歴史や、それに伴うアフリカ回帰の思想。そして、それらが宗教にまで高められるに至った「想い」の深さがあることは間違い無かったようです。
1976年12月3日
"REGGAE" の神様と呼ばれたボブ・マーリィ氏が、キングストン市内の自宅で狙撃されるという事件が起こりました。
氏は、ラスタファリアンであり、レゲエ・アーティストとして黒人のアフリカ回帰や人種・民族的自立のメッセージを歌声にのせて世界中に届けることに成功した人物であり、
反アパルトヘイト運動などにも積極的であったらしく、ジャマイカではまさに国民的英雄。
二日後の12月5日にはボブ・マーリィ&ザ・ウィラーズのコンサートが控えており、12月10日には総選挙が行われる予定。
ボブ・マーリィは当時の首相だったマイケル・ノーマン・マンリー氏(PNP)の支持を事実上表明していたらしく、5日に行われるコンサートは10日総選挙の結果に大きな影響を与えるのではと噂されていたことから、この犯行はJLP支持派の犯行ではないかとされたらしいのですが、今もまだ犯人は捕まっていないのだそうです。
この銃撃で、その場に居合わせてしまったマネージャーの方は重態。
ボブ・マーリィ氏自身は、肩や頭部に傷を負いつつも命に別状は無く、二日後のコンサートには怪我をおして出演。しかし、当時のジャマイカ情勢では暗殺されてしまう危険が高いと考えられ、その後彼はバハマや英国を経て米国へと逃げ延びることになります。
しかし、
1978年1月10日
PNP党員のアストン・マーシャル氏とJLP党員のクローディアス・マソップ氏らを中心に、ピース・コミュニティーが発足。
それはピース・ムーブメントと呼ばれ、ジャマイカに平和をもたらす大きな流れを生み出し、
彼らの運動は、1978年3月、ボブ・マーリィ氏に再びジャマイカの土を踏ませます。
そして、
1978年4月21日
"One Love Peace Concert"
それはもはや、ジャマイカの歴史にとって、音楽の歴史にとっても「伝説」
ジャマイカの首都キングストンに位置するナショナル・スタジアムで、後に "One Love" と呼ばれ続けることになるコンサートが開かれました。
デニス・ブラウン、ジェイコブ・ミラー、メディテーションズ、ラス・マイケル、ピーター・トッシュ、ジュディ・モワット、U・ロイ、ジュニア・タッカー、アレサ&ドナなど出演アーティストは多数。
夕刻(17:00開演の数時間前)から満員だったという観客はおよそ3万人。
政治家達を招待し、世界各国からは報道陣を招き、恐らくピース・ムブメントによって周到に用意されたのであろうこのコンサートのトリは、ボブ・マーリィ&ザ・ウィラーズ。
22日に日付の変わったクライマックスでは、ボブ・マーリィ氏の呼びかけで、マイケル・ノーマン・マンリー首相(PNP)とエドワード・フィリップ・ジョージ・シアガ党首(JLP)がステージに上がり、固い握手を交わしながらジャマイカの平和な未来を誓いました。
これにより、PNPとJLPの20年にも渡る闘争の歴史。それは、同胞同士の殺し合いに他ならない諍いは幕を閉じたのだと周知され、3万人の観客は愚か、それこそジャマイカ全土に歓喜の叫びすら上がったのだと言います。
このコンサートの最後に、出演アーティスト達、観客達、そして党派問わず政治家達。皆が "One Love" という曲を合唱。
故に、今でも多くのレゲエイベントの最後には "One Love" が合唱されることが多いのだとか。
音楽には、たぶん力があります。
私はその正体を「誰かの意思」であると考えています。
それはきっと、自らの感情を、あるいは他人の心を「解放」し、昂ぶらせ、時には結びつけることの出来る力。
"One Love" は、その象徴的な出来事であるような気がします。
しかし、
"One Love" の翌年である1979年。
このコンサートを企画したピース・ムーブメントのJLP側代表のクローディアス・マソップ氏は射殺されてしまったのだそうです。
そして、翌1980年にはPNP側代表者のアストン・マーシャル氏も射殺。
「内戦の様」とまで評されたジャマイカ国内の政治闘争は、1980年10月の総選挙でエドワード・シアガ氏率いるJLPの勝利となり、
以降政局は比較的安定し、1989年までシアガ氏が首相を勤めることになります。
結局、
"One Love" コンサートの開催された1978年の前半から1980年の10月に至るまで、この選挙戦での死者は900人近いと言われているのだとか。
音楽の力は脆弱で、暴力は暴力であるが故に強力。
暴力によって解決されてきた人類の歴史があることを、暴力によって生み出された平和の存在を、恐らく我々は否定できません。
しかし、
暴力だけでは何も解決しない。そこに平和な、安穏な未来を望む「意思」が伴わなければ、それはただの破壊でしかない。
音楽は、日常的には芸術であり娯楽に過ぎません。
しかし、そこにはどんなに些細な日常の風景を奏でるものであっても、確かに誰かの「意思」が込められており、
音楽ってのは、きっとそういう「意思」を表現するものであるんじゃないのかなあ。。。
とか、私は思いますm(_ _)m
Gun Finger "Gun Court" [その他]
ホワイト・エンサイン。すなわち白地に赤十字の旗で、そのカントン部分に "Union Jack" ならぬスコットランド国旗と同じく聖アンドルーのX字を持った軍艦旗(色違い)を掲げる国があります。
その国は、カリブ海の大アンティル諸島に位置する島国で、英連邦内英連邦王国の一国。
英連邦とは、
"The Commonwealth of Nations"
かつての大英帝国を前身に構成された独立国家の集合体。もちろんいわゆるイギリス、U.K.も含まれています。
参加する国々の数は50ヵ国を超え、その人口は世界の三割を数えるのだとか。
中でも、
"Commonwealth realm"
英連邦王国と称される16の国々は、
「君臨すれども統治せず」という理念の下、政治的には独立しながらも英国の王様を国王と定めている国々であるのだそうで、
故に、
その国は当記事更新現在に於いて立憲君主制国家。
それが、ジャマイカです。
総面積約10,991k㎡のこの島は、大航海時代の最中1509年にスペインによって植民地とされ、
1670年にはイギリスによって植民地とされ、
その支配は1800年代の反乱を経てもなお続くものの、
1938年には英領カリブ圏諸国では最古の政党であるPNP(People's National Party)人民国家党が設立され、
1943年にはJLP(Jamaica Labour Party)ジャマイカ労働党も設立され、
1958年から西インド連邦(イギリス連邦内で自治権を有する半独立国家の連邦)に所属。
1959年にはイギリスから自治権を獲得し、
1961年には西インド連邦を脱退。
1962年に英連邦加盟国として独自に独立を果たした。
しかし、
独自の元首を持つことは無く、政治的に完全な独立主権国家でありながら、現在でもイギリス国王を元首とした英連邦王国の一国としてカリブ海に浮かんでいます。
故に、大きな意味では今もジャマイカは「イギリス」と言って良いのかも知れませんね。
例えば、カナダ、オーストラリア。「あやとり」んトキ出てきたパプアニューギニアやナウル、沈む島として日本の報道にものったツバルなんかもそういう意味では「イギリス」なのだそうです。
さて、
外国による支配と解放への戦いの歴史を根深く持つジャマイカ。
故になのか、独立後その政治闘争は苛烈を極め、1960年頃から1978年の「和解」に至るまでのおよそ20年、PNPとJLPは、まさに血で血を洗うような抗争をさえその歴史に持つようです。
政治思想を持つ国民はそれぞれがそれぞれに自らの正義を鉄拳と銃弾を以って叫び合い、
PNP(当時与党)とJLP(当時野党)の政治抗争は政治的に不安定な状況を生み出し、
多くの一般人が、失業、住居不足、低賃金などに悩まされ、それは次々と暴動を生み落とし、
首都キングストンは世界で最悪と呼ばれるほどに危険な街と成り果てる。
"Gun Court" とは、
銃の薬莢を持っていたら即終身刑。嘘か誠か、そんな風聞まで聞こえたジャマイカの留置施設。
その過激な闘争と自国内での弾圧の歴史を1977年の閉鎖まで冷たいコンクリートの壁に刻み続けていたのかも知れません。
その20年以上とも言われるジャマイカ国内での諍いに終止符を打ったもの。それはもちろん「ひと」の意思。
そして、
"REGGAE" と呼ばれる音楽でした。
Gun Finger "Union Jack" [その他]
あなたが私にくれたものぉ~♪
キリンがさかだちしたピアスぅ~♪
あなたが私にくれたものぉ~♪
フラッグチェックのハンチングぅ~♪
あなたが私にくれたものぉ~♪
ユニオンジャックのランニングぅ~♪
あなたが私にくれたものぉ~♪
まるいレンズのサングラスぅ~♪
あなたが私にくれたものぉ~♪
オレンジー色のハイヒールぅ~♪
あなたが私にくれたものぉ~♪
白い真珠のネェックレスぅ~♪
あなたが私にくれたものぉ~♪
緑色した細いカサぁ~♪
あなたが私にくれたものぉ~♪
シャガールみたいな青い夜ぅ~♪
だい好きだったけどぉ~~♪
カノジョがぁーいたぁーあなんてぇ~♪
だい好きだったけどぉ~~♪
さいごのぉープレぇーゼントぉ~♪
バイバイ マイスイート ダーアぁリンっ♪
さよならー してあげるわぁ~~♪
※「プレゼント」1990年 by JITTERIN'JINN
1990年といえばバブル終焉の年。
さよならー してあげるわぁ~~♪ってなモンで、未曾有の好景気なんてのもさよならしちゃった年でしたね(^^)
さて、
「イギリス」と我々日本人が呼んでいる国があります。
私だけのイメージで言うと、
基本コーカソイドの国で、ジェントルメンがレディファーストで、歴史的な都合からネグロイドの方々や中国系の方々も多く住んでいて、王室があって、貴族がいて、寄宿学校があってなんだかハリーポッターで、MI6が007で殺しのライセンス的な、ケルト神話のモリガンがヴァンパイアでアーサー王伝説がエクスカリバーでアヴァロンが理想郷で、IRAがテロリズムでマスターキートンなんかと勝負してて、アヘン戦争がファンタジーなトレインスポッティングのヘロインな監視カメラ満載ストリートで、シャーロックホームズがスコットランドヤードとモリアーティな教授で、マッシュルームなビートルズがフィッシュアンドチップスで、バグパイプがハイランダー的スカートのタータンチェックで、霧のロンドンブーツがエアポートにむせび泣く。みたいなカンジ。
要は、知り合いもいねーし行ったこともないんスね(^^;
そんな私にとって、
イギリスといえばパンクロック。
パンクロックといえばセックスピストルズ。
セックスピストルズといえば "Anarchy In the U.K." でガチ(--ゞ
あ、そうそう。少しズレますが、ちゅーか補足になりますが、
"Punk Rock" いわゆる「パンク」ってーと、イギリス生まれの "Anarchy" 「アナーキー」 "Anarchism"「アナーキズム」すなわち「無政府主義」を主張する退廃的な音楽 。みたいな印象があったりするのかも知れませんが、
そもそも "Punk Rock" はイギリス発祥では無いようですし、
「無政府主義」と訳されてはいても、「アナーキズム」は、確かに「国家」を廃する思想でありつつ「自由な個人」を奨励するものではあっても、基本的に相互扶助の理念を掲げる極めて平和的な思想であり、根本的には「国家」を廃することで無秩序な社会を構築することを奨励するバイオレンスかつクレージーかつニヒリズム的っちゅーかヘドニズム的な思想では無いと思われます。
なんなら「パンク」がめっちゃ流行った「王国」イギリスにあっても、当初は左派。社会主義的音楽の要素が強かったようですし。
まあ、念のためm(_ _)m
ハナシを戻して、
"U.K." とは、"United Kingdom"の略。
この場合の正式には "United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland"
「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」
を意味するのだそうで、「イギリス」という名称はイングランド(アングル人の国という意味)のポルトガル語「イングレス」が日本に定着した慣用名であり、世界的にはまったくなほど通じないのだとか。
関係ないですが、「世界的」って、その基準はどこに?みたいな、もの凄くあやふやというか漠然というか、実体の無いとても曖昧な言葉のような気がしませんか?いや、どーでもいいですすみませんm(_ _)m
まあ、「日本」だって "nihon" とか "nippon" なんて言っても外国の方には通じないことも多いのと似てる?かな?
なんちゅーか、たいがい "Japan" 「ジャパン」だったりしますし、
例えば「中国」だって本来の呼びとしては「中華人民共和国」
むりやりカタカナにするなら「チュンファレンメンゴンファゴア」でしょうってハナシdeath罠(^?^;
まあ、なにしろヨーロッパ北西に位置する島国である "U.K." は、
現在グレートブリテン島北部のスコットランドと中南部のイングランドと西部のウェールズ。そしてアイルランド島北東部の北アイルランドから成る連合国家であり、
大まかに大航海時代以降第二次世界大戦以前のかつて "The British Empire" すなわち「大英帝国」として、時には "Pax Romana" ならぬ "Pax Britannica" と称されるほどに植民地や領土を広げ、隆盛を極めていたのだそうです。
ちなみに "Pax" 「パクス」もしくは「パックス」とはローマ神話の女神様の御名前。ギリシャ神話でいう「エイレネ」もしくは「イレーネ」なんてのに相当する女神様で、
「華やかな平和」とか言われるらしいですが、要するに「平和」を象徴する女神様。
かつてローマ帝国が強大な軍事力を背景にして、結果的に支配地域に於ける「人類史上最も平和な時代」ってのを築き上げていたことを指して、エドワード・ギボンという18世紀のイギリスの歴史学者の方が "Pax Romana" 「パクス・ロマーナ」と表現したのが由来だとか。
大英帝国支配による植民地の広大な範囲での平和。故に「パクス・ブリタニカ」ってなこってすわな。
冒頭の歌に出てきますが、
「ユニオンジャック」とは、"Union Jack"
この "U.K." の国旗を指す言葉です。
"U.K." は、イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの連合国家であるため、
この旗は、それぞれの国家の守護聖人を示す国旗。イングランドの白地に赤十字の聖ジョージ旗、スコットランドの青地にX形白十字の聖アンドルー旗、アイルランドの白地にX形赤十字の聖パトリック旗を組み合わせたものなのだそうで、
よく見ると赤のX型部分は上下でズレており、これは「カウンターチェンジ」と呼ばれ、スコットランドと北アイルランドが同位であることを象徴するデザイン。
ウェールズについても白地に赤い龍の独自国旗があるのですが、13世紀にウェールズ公国を形成するものの同世紀末にはイングランドに併合されており、その後1536年にはイングランドと正式に合併。この時にはイングランドの国旗がそのまま使用されることになったので、その後の連合としての国旗に自国の国旗の意匠が反映されていないのだとか。
次期イングランド王(現在はグレートブリテン王)となる者。すなわち皇太子はプリンス・オブ・ウェールズ。すなわちウェールズ大公として戴冠するらしく、もうイングランドの一部というか同国というか、その他のふたつの国とは事情がかなり違っているようですね。
"Union" も "United" も要するに「連合」を示す単語であり、
"Union Jack" とは、本来は "Union Flag" 「ユニオン・フラッグ」すなわち「連合の旗」であるらしいのですが、日本では恐らく圧倒的に「ユニオンジャック」で通っているような気がしますし、日本じゃなくても "Union Jack" で通っちゃうようです。
これは、どうやら「大航海時代」とか「大英帝国」時代に於ける造船技術や海軍力というか、世界の海に於ける英国の優位性から来ているようで、
船舶に於いて、船首に掲げる小さな旗を "jack" 「ジャック」と呼び、船尾に掲げる大型の旗を "ensign" 「エンスン」もしくは「エンサイン」と呼び、
船首の「ジャック」には主に国旗や社旗などを掲げ、船尾にはその国籍や所属、素性を表す旗「船舶旗」を掲げるのだそうです。
例えば、日本の自衛隊だと「ジャック」には「日の丸」で、「エンスン」には他国で「軍旗」に相当する「旭日」の旗を掲げています。
ちなみに、「旭日旗」ってのは、旧日本軍の頃から使用されている日章と旭光をデザインした旗のことであり、これを船尾に掲げる船舶は、国際的に日本の自衛隊の船であると見なされることになるのだとか。
かつての英国軍艦の場合には、
「ジャック」に「ユニオン・フラッグ」を揚げ、
「エンスン」には、主に旗の左上(カントン)部分にユニオン・フラッグのある「エンサイン」を
ホワイト・エンサインと呼ばれる白地に赤十字でユニオン・フラッグのカントンを持つ旗なら前衛。
ブルー・エンサインと呼ばれる青地にユニオン・フラッグのカントンを持つ旗なら後衛。
レッド・エンサインと呼ばれる赤地にユニオン・フラッグのカントンを持つ旗はなら主力艦隊。
という風に掲げていたのだとか。
故に、やがて海上に於ける圧倒的な優位性を誇っていた英国の旗は特に「ジャック」
"Union Jack" 「ユニオン・ジャック」と呼ばれるに至ったのだとか。
でかるちゃあ⑫"Iron Meteorite" [その他]
「ツノのある星」
"Navajo"
彼ら自身が自分達を指してそう呼ぶことは少ないのだ。
彼らは "Dine"
すなわち"athabascan"という言語群に於いて、ただ「人々」と称する。
なんてなことを聞いたことがあったりしますが、
ネイティブアメリカン最大の部族「ナバホ」に伝わるのだという「あやとり」であります。この「ツノのある星」は、恐らくは流れ星を表現したのであろうパターンなのだとか。
個人的に流れ星ってーと、
まずは、見えてる隙に三回願いを唱えると叶うという迷信。
今までの人生、なんとか一瞬で三回願いを唱えられないものかと検討に検討を重ねてきましたが、
その結果、少なくとも日本語では「カネカネカネ」ってーのが多目的かつ最短であろうという結論に至り、
かつて「どーなんだろう?(--;」みたいな、おさまってんのかどうか的なタイミングで唱えてみたことが何度かあるような気がしますが、、、
とりあえず、まだ叶った覚えはありません(--ゞ
あとは、ヒッタイトの隕鉄伝説。
ヒッタイトってのは、すげー大まかに言うと紀元前1600年~紀元前1190年頃アナトリア半島を中心に大きな王国を築いた民族の総称。
アナトリア半島ってのは、人類最古の定住遺跡チャタル・ヒュユクなんてののあるような「歴史」の国、現在のトルコの西側にあたる場所。地図を見てみると、概ね飛んでイスタンブールから南東に広がりアダナとかトラブゾンってートコらあたりまででしょうか恨まないのがルール夢の砂漠でロール。
彼らは、紀元前2000年頃アナトリア半島にやってきた民族で、
紀元前1600年頃にはこの地に王国を築き、
紀元前1595年頃にはメソポタミアを滅ぼし、
その軍事力は強大とされつつも、紀元前1190年頃に謎多き「海の民」によって滅ぼされてしまったとされているようです。
ところで、歴史上彼らを彼らたらしめた大きな要因は、青銅器全盛の時代に鉄器を持ち出したこと。
青銅の武器と鉄の武器じゃあ、そら鉄のが強いわな。
ヒッタイトの精錬製鉄技術は王国滅亡まで秘術とされていたらしいのですが、そもそもの始まりは、時には含有量が8割を超えることも有り得るのだという隕石に含まれていた鉄を使用したことにあるらしいです。
彼らが信仰していたのだという原始ミトラ教は、紀元前1700年頃の中央アジアに発祥を求めることが出来るようで、その後ミトラ教として古代ローマに於いてキリスト教と国教の地位を争うほどに勢力の残った大きな宗教であり、
ヒッタイトでは、どうやら無限の女神ズルワーンから産まれたという、
ミトラ・ヴァルナ・アリヤマン・インドラ・二柱のナーサティア神(ティールと名称不明)。そして、名称不明のもう一柱を七大天使、あるいは現代の「曜日」に通じる七曜神として崇めていたのではないかと考えられるのだとか。
これは、古代インド(紀元前1000年頃~紀元前500年頃)のリグ・ヴェーダという書籍に見られるアディティーと「ミトラ、ヴァルナ、アリヤマン、バガ、ダクシャ、アムシャ、インドラ」という七柱の関係からの推測であるらしいですが、
このあたりの神様は、時代や地域と共にずーっと変化し続けているため当時も同じ名前や象徴の神様を信仰していたかどうかは不明。地域によっては主神である「太陽神」ミトラさえ怪しくなったり、神々の善悪さえ入れ替わったりするながら、
古代ミトラ教に於いてはその数、「七柱」であることは確定的なのではないかと推測できるらしいです。
そして、
かつて、どうやらヒッタイト人達、あるいはその一部(?)は「プレアデス散開星団」と現在呼ばれている夜空の星にこの七柱の神あるいは大天使を重ねていたようです。
さて、
プレイアデスとも言いますが、このプレアデス。
日本で言うなら六連星(むづらぼし)あるいは昴(すばる)というおうし座の20くらい(らしい)の星々なんですが、通常は六つに見えているのだそうです。てか、個人的には六つにしか見えたことがありません。
けれど、状態や視力によっては7個とか8個とかに見える場合もあるらしく、
手前にあるガスか何かの都合から、一説には紀元前3000年くらいまでは誰でも普通に。それ以降も条件次第で7個に見えていたようで、
故に、その名の由来である七姉妹のプレアデスがあてはめられている。
プレアデスってのは、
マイア、エレクトラー、ターユゲテー、アルキュオネー、ケライノー、アステロペー、メロペー。
ギリシャ神話に登場する七姉妹の女神の事です。
ひとくちにギリシャ神話といっても、例えばイーリアスとかオデュッセイアとか、テオゴニア、ビブリオケーテ、その伝承や書物に宿るバージョンは様々なようで、
それらの中で、カタステリスモイってのがあります。
カタステリスモイってのは、訳すと「星々の配置」
これは、天空に浮かぶ星々に神秘の神々や妖精たちを重ね、その起源について書かれたものであったのだとか。
「あった」ってのは、既にオリジナルが存在せず、1世紀頃に要約されたと思われる文章しか確認されていないから。らしいですm(_ _)m
その中に、彼女達がオリオンに追われ、ゼウスによってハトと変えられ逃げ延び、最終的にプレアデス星団となるというお話があるらしく、
この時、オリオンはゼウスに送り込まれたサソリによって命を落とす。
だから、天球に於いてオリオン座はプレアデスを追い、そして、さそり座から逃げている。
また、末娘のメロペーは人間であるシーシュポスと恋に落ち、人間と交わったことで不死でなくなり、故にプレアデス7番目の星として薄く輝き地上の人の目には見え難いのだとか。
ところが、
カタステリスモイよりも遥かに昔。
そう、ヒッタイトの人々は、既にプレアデス星団を七曜神として捉えていました。
そして、見えなくなる7番目の星は流れ星となって地上に降り立ち、隕鉄、すなわち鉄を彼らにもたらすという伝説となったようです。
これが、ヒッタイトの隕鉄伝説の大まかな内容。
また、この伝説と同時に「天人女房」すなわち日本でいう「天女の羽衣」伝説も幕を開ける。
中央アジア発祥ではないかと考えられる説話に、
「森の泉に七羽の白鳥の姿で舞い降りた天女が羽衣を脱ぎ捨て美しい娘たちに変身し水浴びを始めるのを若い猟師が見てしまい、その美しさに惹かれた猟師は一枚の羽衣を隠す。
そして、天女達は再び白鳥に化身して天空に飛び去りますが、取り残された天女は猟師と結婚して地上に留まることとなる」
というものがあり、
細部は違っていても、これと同様の話は、ヨーロッパ、ロシア、中国、インド、太平洋の島々、北米に至るまで伝承されているらしく、
どうやら、これの原型がヒッタイトの七曜神とプレアデス、そして隕鉄の伝説ではないかと考えられるのだそうです。
神ってーと、なんか大仰ですが、
天使、地上に降り立つ天使、そして堕天使なんてのを天女に置き換えるとなんとなくハマるのかも知れませんね。
「天神女房」の伝説は、ヒッタイト滅亡以後、鉄の精錬・製鉄の方法などと共に、
そして一説には、体内で磁気を感じる、すなわち鉄鉱石の在りかを示しながら移動する白鳥の渡りと共に世界中に広がった。
ん、じゃあなかろうか?
ってなことも考えられなくはない。らしいです(^^;
が、しかし、、、
メソポタミア文明初期のシュメールの頃の都ウルからは、隕鉄と見られる鉄片が出土しており、これは装身具などに利用されていたと見られるのだとか。
故に、実際のところ隕鉄の利用に関してはヒッタイトが元祖という事でもないらしいです。
ただ、隕鉄は希少。つまり汎用の武器に出来るほど豊富にあるものではなく、
また、アナトリア半島にあるアナトリア高原には鉱物資源が豊富で、そこにはヒッタイト以前から製鉄技術を持った先住民が居たと考えられ、ヒッタイト人はそこに住む先住民を征服した際にその技術を継承し、独占。
紀元前1400年頃には浸炭法、すなわち鍛造による鋼の製法を持っていたと考えられるらしいので、
やっぱ、ヒッタイトをヒッタイトたらしめたのは鉄。中でも鋼。
そんなカンジで間違い無さそうですm(_ _)m
「サンセイ」の反対 [その他]
確かに、
「別にそんなことを頼んだ覚えなど無い」
のだろうとは思うのですが、
いつか我々は産まれ、そして「イマ」ここに居ます。
どことなく同様に、
「別に私が望んだことでは無い」
にも係わらず、
私は「日本人ですよ」と決められてその国籍を持ち、
「義務ですよ」とされている教育を修了し、法律と雇用契約に則り労働に従事し、様々な形で納税をしている。
あるいは、個人的に嫌だろうがなんだろうが犯罪を犯せば強制的に逮捕され、裁かれ、処罰されもする。
そのかわり、
私の周辺では「いつのまにか」様々なインフラが整備され、
公務員の方々が行政を為し、
失業してしまったり障害が出るようなことがあれば、生活は社会的に最低限保護され、保険に補助された世界的に高度な医療をも望むことが出来る。
また、様々な条約や国連への参加などの外交、内政では防衛庁、ぶっちゃけるなら「自衛隊」が海外からの武力的な侵略を防ぎ、
司法制度が犯罪者を抑制し、
警察力が国内の治安を維持し、
基本的には消防士の方々が様々な災害から救い出してくれもする。
あるいは、光熱、水、通信、交通、金融など。
「既にある」もしくは「これから出来る」であろうシステムを享受し、生活を営むことも出来る。
もっと言うと、
我々日本人は、公務員を含むどのような職業を選択するのも自由だし、誰と結婚するのも自由だし、どんな宗教を信じても構わないし、公序良俗に反せず誰の名誉も傷つけないのであればどんな発言も許される。
そして、
日本は「戦争をしない国」
これは、
「詳細には間違っています」と前置きせねばなりませんが、もの凄く割愛してしまうと、
日本国憲法
第9条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
及び
第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
という理念。
言い換えるのならば、個々に望もうが望むまいが「日本国に所属する者としての総意」が存在することによって成立しています。
「世界」では、
紛争やテロは各地で絶えず、発展途上国ではインフラも医療も遅れ、
世界規模での「富の分配」は遅々として進まず、
例えば、全世界人工の半数以上が電話を使用したことも無く、いまこの文章のある「インターネット」というメディアを利用するに至っては、たったの1割程度と予想されるのだとか。
約66億と言われる全人口の内約10億人以上が飢えに苦しみ、一日に約25,000人が餓死していると言われ、
この数字は、「全世界を平均化すれば、約6~7人にひとりの人が食うに困り、一分間に17人もの餓死者がいる」ということを意味し、
かつ、この餓死者の内の12人、約70%は「子供」であるのだとか。
これを川端的に「単純な文章」化すれば、
世界には、日本で「健康的で文化的な最低限度」とされる生活さえも適わず、自身の命さえも日々危うく、さらには目の前で我が子が飢え死にする姿を見なくてはならない「誰か」が何千何万という数で存在している。
それも、毎日。
という予想的事実に行き当たります。
断言しましょう。
「最近物騒」だろうが、「おかしなヤツが増えた」だろうが、「ストレス社会」だろうが、
「イマ」の日本は「良い国」です。これはきっぱりと。
しかし、
教育は崩壊とまで評され、ペアレンツはモンスターでクレーマーで、
景気は長く低迷し、なんか癒着とか背任だか横領だか滑り込み天下りだか税金の無駄遣いだかガンガン報道されてるし、なのに税金は高くなりそうだし、
年金制度なんか「えー(--)どうなんだろ?」だし、だからって税金上がっても「やっぱどーなの?」みたいなカンジしかしないし、
医者や看護士、なんなら病院そのものも数足りないし小児科や産婦人科や救急救命なんかシステムとして破綻してるっぽいし、なんやかんやで医療訴訟も増えてるみたいだし、
正直、この先どうなっていくのかは判らない。
けれど、
我々は、日本人である限り一部例外とされる対象を除いて「成人」に至れば、判らないけれど判らないなりにその「国としての意思決定」に参加することは出来る。
その「権利」を持っています。
それは、
『個々に望もうが望むまいが「日本国に所属する者としての総意」』を決定する「権利」であり、
近々には自分達の未来。延いては次の世代の生活を左右することの出来る「権利」であります。
その「権利」は、
かつて我々の先祖が、先輩達が、血塗れになって、まさしく「命を賭けて」勝ち取った至高の「権利」だと言って良いと私は考えます。
それが「参政権」です。
これも「詳細には間違っています」が、
「参政権」の行使。すなわち我々一般の国民が「意思決定」に参加する方法は、単純には「投票」です。
日本人である我々に保障されたこの「権利」を「投票権」と呼びます。
もちろん何らかの政治的具体案を持つのであれば立候補して議員となることも許されますが、そのハードルは私の思う「一般」という観点からはとても高いと思われるので、
まずは「投票」
これが一般的と言って良いであろう、我々に与えられた最高の「権利」のひとつだと私は考えています。
例えばその「権利」を、
「面倒だ」「判らない」「関係ない」という理由でこれを放棄するのなら、
「面倒だ」「判らない」「関係ない」という理由で「義務教育」を放棄する子供達を導く資格を失い、
「面倒だ」「判らない」「関係ない」という理由で「就労」しない、あるいは出来ない人々を放置し、
「面倒だ」「判らない」「関係ない」という理由で、政治が、社会が、治安が、経済が、それは言い換えるのならば「自分達の生活」が麻痺・崩壊していくことを非難する「権利」さえも同時に「放棄」することになってしまうのかも知れない。
だから私は、
「選挙」があれば、夫婦揃って子連れで投票に行っています。
それは、万人がそうだとは思いませんが、少なくとも私自身が幸せに暮らせる可能性を高めるために出来ることとして、恐らくそうするべきだと考えるから。ですm(_ _)m
たがか一票、されど一票。
「参政」の反対は、きっと「放棄」であります。
これは、エエかっこでもなんでもありません。事実上政治を為すのが「議員」と呼ばれる方々でない部分を私が知らないのでも無い。
確かに、私のたった一票など現実的には意味が無いものであるのかも知れないし、
例えば国会が機能しなくなって、そのまま放っておいても色々な法律は決まっちゃうだろうし、黙っていてもキッチリ税金は高くなって払わされることでしょう。きっと、というか、たぶん。
結局、どの政党が政権を握ろうが、誰が総理大臣になろうが、確かに大差無いのかも知れない。
しかし、
その「日本としての意思決定」に「意見」を出し、ハチャメチャだろうが議論を尽くし、私なんかにも解かるように説明をしてくれる私達の「代表」であり、
「国会」でそれを「決定」する職業こそが「国会議員」であります。
故に、
かつて我々が良かれと「選んだ」ことによって、
結果的に、地方の医者や産婦人科・小児科・救急救命等の従事者やその施設は減り、
国や地方自治体の借金は肥大化し、
あるいは電話会社も国有だった鉄道も郵便局も「民営」となっている。
という事実があります。
とはゆーものの、、、
日本は「自由選挙」であり、「投票」は日本に於いて「義務」ではありません。
「投票」しない「権利」も保障されています。
素直に「政治に感心を抱かない」という「権利」だって、確かにある。その行使はどうやら事実認められているし、誰も彼もが政治に興味を抱く必要なんて無いっちゃあ無いような気もします。
あるいは、個々の政策や政党による対外的な評価。国や地方、所属地域への貢献への期待。そういうものを一切考慮せず、ただ闇雲に、
例えば「名前が気に入った」とか、「誰かに頼まれた」とか、そういう理由で「投票」することは、大変危険な行為であるとも言えるでしょう。
ただし、
興味があろうが無かろうが、日々政治は為され、法律は出来ていて、自分が「投票」していないからって「いつのまにか」決められた「義務」から逃れることは許されない。
そして、その「許されない」も、自分の意見は「まったく」含まれないまま「いつのまにか」決められることにはなります。
「投票」しない「権利」を行使する。とはそういうことであろうかとm(_ _)m
ぶっちゃけ、
私は、正直、「面倒だ」「判らない」「関係ない」という理由で、学生時代には「選挙権」を放棄していたクチ。
初めての「投票」なんか、仕事の絡みで仕方なく「言われた名前を書きに行った」みたいな体たらく。
自己批判するに、偉そうになに書いてやがるってなモンではあるのですが(^^;
けれど、
こっちだって税金も納めてりゃ、本能や野生を押し殺して条例だって法律だって、そういう「いつのまにか」みたいなシステムなんかを守って生活してんだってーおハナシですよ。
テメーの預かり知らねートコでばっかりハナシが進んでくってのは、どーにも納得できない部分も確かにある。と、いつだったか思ったんですよね(--)
だから、
もしも我々の「代表」となるであろう「誰か」が、出来れば私にも解かる言葉で、平和で安穏に暮らせる未来の日本社会を実現してみせて下さるというのなら、
せっかくだから「そういう国にしたい」という思想にこそ、私は私の一票、その「権利」を委ねたいと思う。
間違っても立候補者「個人」にではありません。まして「政党」でも無い。その「思想」、その「政策」にこそ投票したいなと思うんです。
それは、きっと私自身のために(^^)
こんなカンジの「思想」で「選挙」に行くのって、たぶん、大きく間違った考え方では無いんじゃないか?
てなことを、「イマ」の私は思いますm(_ _)m
でかるちゃあ⑪ "Venus" [その他]
「百万本のバラ」という歌があります。
女優に恋をした貧しい絵描きは、
「すべて」を売り払って手に入れた百万もの真紅のバラを彼女に贈りながら、しかし、決してその想いを告げることは無く。
故に、女優はその真っ赤なバラの海に込められた彼の想いを知る術など持てる筈も無いまま街を去って行く。
だから、
「すべて」を失った貧しい絵描きは、孤独な日々を「一方的な美しい思い出」と共に生きることになる。
私は、
「そんなもの」が幸せに出来るのは自分のことだけ。
もしも「そんなもの」に後悔を抱く日が貧しい画家に訪れることがあるのなら、
もしも「そんなもの」が画家自身をすら幸せにすることが出来ないのだとしたならば、
「そんなもの」は、結局誰のことも幸せにはしないのだと、この歌、それは架空の、しかし紛う事無きひとの心象が編み出した物語が告げているように思えてならない。
「そんなもの」
すなわち「恋」が、あるいは対象を通して自分にこそ向けられる想いであるならば、
だからこそひとは、
決して「そんなもの」に後悔を覚えてはならないのかも知れない。
まっ、なんにせよ。
私は男で、かつ、びっみょーに心に繊細な部分を持ち合わせていないことも無いような気がしないでも無く、
また、片思い、一目惚れ、失恋。そういうのが今までの人生に無かったわけでは無いので、この歌に登場する画家の気持ちは解からんでもないような気はします。
確かに、綺麗な女のひとというか、自分好みの女性ってのは、
観てるだけで「なんか良い」時もある(^^)
さて、
「大きな星」
これは "Navajo Nation" すなわち、ネイティブアメリカン最大の部族「ナバホ」に伝承されていた「あやとり」で、金星を示すものなのだそうです。
ナバホでは、明けの明星は「母」、宵の明星は「父」と呼ばれ、特別な星であるのだとか。
ただ、私の知るナバホの神話にこの「母」と「父」、すなわち金星のお話は出てきませんでした。
ナバホで「母」「父」といえば、「最初の女」と「最初の男」
あるいは、人類(ナバホ)の祖であるというのなら、たぶん「母」なる「エスタナトレーヒ」と、恐らく間接的には「父」なる「太陽」
ナバホ神話は基本的に口伝による伝承であり、原典と呼べる書物が存在しなかった故なのだろうと思われるのですが、語りべによって諸説を成すと思われ、
エスタナトレーヒという人であり神でもあるらしき存在は、どうやらターコイズ(?)から生まれ、「最初の女」と「最初の男」に育てられ、
やがて「太陽」と結ばれ「光」と「闇」を司る(?)双子の英雄ナヘナッツァーニとトバデスチンを生み出したという女性。
「だと思います」ということになるのだろうと思います。たぶん(^^;
私のかつて読んだ文章や伝聞からの記憶と最近ネットで幾許か補填された情報によるナバホ神話の大まかな流れは、
第一の世界で神によりトウモロコシから「最初の女」と「最初の男」とが創造され、彼らはコヨーテ(神の化身あるいは創世者そのものであり、しかしペテン師でもあるという存在?)と共に暗くて狭いその世界を出ます。
そして、詳細は省きますが、第二・第三・第四の世界を越えて、やがて第五の世界。それは今現在の世界へと彼らは「人々」と共に至り、闇の世界でしかなかった第五の世界を様々な神々に祈ることで人の生きる環境へと整えるのですが、
天に落ち着いた「太陽」が沈まなかったので、大地が干上がってしまいそうになる。
そこで人々は毎日生贄を一人差し出すことで「太陽」に毎日沈んでもらうこととし、
故に、この世界は「毎日誰かが死ななくてはならない世界」となりました。
ただし、
この時コヨーテは告げます。
「死ぬのはナバホの者でなくとも良い」
こうしてナバホの人々は第五の世界で幸せに暮らし始めますが、
やがて慢心し「自分たちの力だけで幸せを手に入れた」と驕り高ぶり始めてしまう。
そのことに腹を立てた「最初の女」と「最初の男」は、怪物たちを生み出し、人々に差し向ける。
巨人、カモシカ、鷲など、怪物たちは人喰いで強力な存在。人々を苦しめ不幸にします。
しかし「最初の女」は、あまりに人々が不幸になってしまったことに胸を痛め、北西の山に眠っていたエスタナトレーヒを拾い、人々を救う者として育てます。
たった4日で成長したエスタナトレーヒは、森の中で「太陽」と出会い、森の小屋で4日間を二人で仲睦まじく過ごしますが、なぜか「太陽」は去ってしまう。
その4日後、エスタナトレーヒは双子を出産。
生まれた双子は、やはり4日で成長し、父である「太陽」を尋ね、怪物退治の武器を授かります。
エスタナトレーヒと二人の息子達によって怪物たちが退治された第五の世界は平穏になりますが・・・
えーと、、、
「怪物たちとの戦いが激し過ぎたため」だったと思います。
この段階で、「人々」は全滅してたりします(--;
その後、エスタナトレーヒによって生み出された新たな「人々」がナバホの祖先である四つのクラン(氏族)となり、ナバホは再び栄えるのですが、
しかし、
「最初の女」と「最初の男」は次第にエスタナトレーヒに嫉妬し始め、人々に災厄を贈りつけるようになり、
そして、その最後に贈りつけた災厄こそが「白人」だった。
確かそんなお話だったような気がしますm(_ _)m
ちなみに「エスタナトレーヒ」は、チェンジングウーマン、あるいはターコイズウーマンとも呼ばれる四季と豊穣、そして日没を司る大地母神的な女神と同一視されている。つか、恐らく同一の存在であるようです。あくまでもたぶん。
ね?「金星」出てこないでしょ?(^^;
しかし、
金星ってのは、太陽、月に次いで「明るく見える星」
故に、日本古来でも「星の神」そのもの、まあ、星の親分的な存在として扱われてきたようですし、
中国古来の陰陽なら、明けの明星が「啓明」宵の明星が「長庚」または「太白」という軍神。
これが日本式の陰陽になると「大将軍」とか「歳殺神」とかって金曜星の方位の神様「金神」となり、基本的に陰の気、故に凶方とされます。
ちなみに「大将軍」とか「歳殺神」ってのは、荒ぶる神。
まあ、性格的には破壊神っぽい神様で、木・火・土・金・水という「五行」の「金気」に通じる為刃物の神様でもあります。確か。
また、世界の色々なところで特別な星として扱われていたようで、
シュメール神話では、愛の女神「イナンナ」
まあ、メソポタミアの「イシュタル」でんな。とても美しい女神のイメージかと。
インカ神話では、夜明けと夕暮れを司る女神の「チャスカ」
たぶん、この方も美人さん。
アステカ神話なら文化と農耕・風の神「ケツァルコアトル」と、
その対あるいは双子として扱われることの多い炎と不幸の神「ショロトル」
または、太陽神「トナティウ」に挑んで霧となった破壊神「トラウィスカルパンテクートリ」
「ケツァルコアトル」は平和の神様として愛され、人類に火をもたらしたとも言われており、人身御供を禁じたことからアステカの神々最強の「テスカトリポカ」と争い敗れ、逃げ延びて金星となります。
「ショロトル」はマイナーでイメージも良くないカンジですが、太陽の一部となる為「トナティウ」への生贄となるのが嫌で、かつ「トラウィスカルパンテクートリ」みたく「トナティウ」に挑む根性も無かったので、逃げて水に入りウーパールーパーになっちゃったとかってー伝説を持つ神様のようです。
ギリシャ神話では「アフロディーテ」
これをもっと通ってそうな名前で言うとローマ神話の「ヴィーナス」
愛と美を司る神様で、女神と呼ばれる存在の中で、たぶん世界一有名。かつ美しい存在であろうかと思われます。
ちなみに「真紅のバラ」は、彼女の涙なのだとか。
キリスト教では、明けの明星が大天使「ルシファー」
説明不用のような気もしますが、堕天使で、イヴを誘惑する「サタン」となるものですね。
カナン、ウガリット神話では、明けの明星が「アッタル」とか「シャヘル」
こちらは、古代の戦いの神様。
んで、宵の明星が「シャレム」
「シャレム」は夕暮れを司り、「シャヘル」(夜明け)と対の神様として扱われるようです。
などなどなど、
高位あるいは強力もしくは人にとって好ましい神格化されたイメージを充てられていることが多いと思われるので、
まあ、何か、ナバホ的にも特別な意味を持つ星であったのかも知れません。
まあ、アレです。
いずれにせよ、夕暮れに、そして夜明けに、どの「星」よりも力強く、そして美しく光り輝く金星に、
猛々しい神々や美しい女神達の名前を着けたのは、きっと男のひとなんだろうな、と。
私はそんな気がします(^^)
ぜーんぜん関係ありませんが、
いわゆる「アダムスキー型」なんてなUFOでお馴染み、ジョージ・アダムスキー。
彼が『1952年にカリフォルニアで「オーソン」という宇宙人に会った』なんてなお話があるのですが、
その「宇宙人」ってのも、どうやら金星人らしいです(--ゞ
おしまいm(_ _)m
でかるちゃあ⑩.Ver.2.0"cube" [その他]
親戚の子の誕生日だったんですよね。
誕生会に呼ばれたんで、プレゼントに添える花として折ってみました。
んで、
最初の写真にも一個、この写真の一番上と同じサイズ。75mm四辺のものが写っていますが、
この立方体は "magic rose cube" という折り紙作品で、
アメリカの "Valerie Vann" という方が考案なさった折り紙なのだそうです。
この "cube" は、
「魔法の薔薇」(^^)
さて、この記事では「あやとり」はお休み。
んで、前回30mm四辺の折り紙による「川崎ローズ」ってのに挑戦してみて、もうちょいなんとかなりそうだったので、
いわゆる普通サイズ、150mmの折り紙を半分の半分の半分。18.75mmくらいの正方形に切って再挑戦。
どーでもいいですけれど、
「川崎ローズ」って最初に目にしたとき、私、どーしても「加藤ローサ」がアタマに浮かびました。ええ、だからどーでもいいです。すみませんm(_ _)m
完全に私事ですが、つかブログの記事なんざ全てが私事ですが(^^;
私、 「悪魔」 んトキに自分の技量を見誤って「敗北」しているので、
今回、自分なりにはかなり気合入ってました(--ゞ
てなワケで、
早速ですが、結果。
いつのまにかこーなってました(^^;
紙は18.75mm四辺が三枚。
茎、葉っぱ、座の部分。そして、鉢らしきものはテキトー折りのオリジナル。
「不切正方形一枚折り」の「川崎ローズ」に、
茎、葉っぱ、座の部分は両面色付き折り紙(黄緑と茶色)の「不切正方形一枚折り」
あと、鉢。ふつーに「不切正方形一枚折り」
オリジナルっても、植物系折り紙の画像なんか参照して折ったものなので、恐らくオリジナルとは言えないものであろうかと。
なんか「薔薇」だけだと寂しいカンジがしたので、まあ、葉っぱとかくっつけてみたんです。
一応「不切正方形一枚折り」にもこだわってみて、まあ、三枚使ってますけれど。。。
しかし、、、
どうやら「不切正方形一枚折り」ってのが折り紙にはひとつのステータスというか不文律というかこだわりというかペーパークラフトとの差別化というか、そういうカンジで存在しているようで、故に「スーパーコンプレックス」とかが登場してきたらしいのですが、
まあ、色の問題もあって、この鉢植えを一枚で切り貼りせずに創ることは、、、
いや、どこかの誰かには出来るのかも知れません。
なにしろ マニアってのは恐ろしい生き物 ですから(^^;
が、アタシにゃキッパリと無理でした。
つか、薔薇って、そもそも鉢植えにするものなのかしら?(^^;;
ああ、そうそう。
ついでに、以前98kさんのコメントにあった3mm四辺素手で「鶴」っての、アレ、ひそかに挑戦してみたんですが、、、
「鶴」って、最初三角に折って、もういっちょ三角に折り込むでしょ?
んで、それから四分の一の正方形に広げる。
その「もういっちょ三角」まで折って、そこからまっっったく手が出ねぇの(^^;
アレ、どーやってひらくんだろう?
針とか爪楊枝とか使えば「なんとかなる」ような気はしましたが、
少なくとも「素手で」ってのは、私には不可能でした。。。
さてさて、
最初に少しご紹介申し上げた"magic rose cube"
この作品は、ちょいと仕掛けがしてあって、花びらの部分と葉の部分を引っ張り出すと「箱」が「薔薇」の折り紙に変身します。
「故に」という言い訳のもと、完全に遊び過ぎで、改めて写真を見ると所々既にヨレヨレになっちゃってたりするワケなんですが(^^;
変身後は、こんなカンジです。
紙のサイズは上から、75mm・37.5mm・18.75mm・9.375mm四辺。
最小9.375mm四辺を拡大するとこんなカンジ。
18.75mmまではわりと楽勝。9.375mmでも折るのは簡単なのですが、組み立てる段階でピンセットが必要となり、ピンセット使用でもこのサイズが私的限界。
また、変身の度にもピンセットが必要で、なんちゅーか、、、
いろんなことが面倒です(--;ゞ
この折り紙は「不切正方形一枚折り」では無く、「不切正方形一枚折り×6(^^)」
使用するのは基本的に赤とかピンク系と緑系の同色3枚がふたセットの計6枚。
花の部分、内側に紙の裏が見える箇所があるので両面色つきの折り紙が良いのではないかと思いますが、厚みを気にしないサイズ。たぶん37.5mm四辺くらいまでなら、二枚貼り合わせて作ると綺麗で、かつ開閉時に破れにくい強さも出るように思います。
製作としては、同じ色と形の「手裏剣」みたいなカンジのユニットを二種類三個づつ折って、それを合体させるだけの単純さですが、
単なる立方体があっというまにかわいらしい薔薇になるという可動現象がとても楽しく、そして美しく、
これはアイデアとしてとても秀逸。
非常に子供ウケする折り紙だと私は思います。
折り方は、ネットで拾いました。
掲載されている書籍などは私には不明m(_ _)m
写真には75mm~9.375mmまでの小さいものも含まれていますが、細いのは、アタシャそういうビョーキなので無視して頂いて(^^;
ちょうど良いサイズだと私が感じたのは75mm四辺。
折り方を手に入れられればご理解頂けようかと思われますが、
これこそホントに誰にでも出来て、
しかも、とても楽しくて、
そして、個人的に「川崎ローズ」ほどではありませんが、美しい。
これは、そういうの大して好きじゃない子供にもある程度ウケるのではないだろうかと私は思います。
少なくとも私が持ち込んだ誕生会では子供たちが欲しがり、また、作り方を知りたがるものでした。
あと、大人でも、最初はウケます。てか、私が見せた範囲ではウケてました(^^)
ぜひぜひ、お試しをm(_ _)m
でかるちゃあ⑩ "flowers" [その他]
「あやとり」には、
自然や風景、物、動植物を表すものが数多く見られるんですが、
たぶん、思うほど目にしないのが「花」の作品なんですね。なぜか。
いや、まあ、私が知らないだけという可能性は多々あるのですが、
それでも、たぶん有名なのは口で引っ張ってとる「朝顔」もしくは「百合」とか、日本の伝承あやとりで置いて仕上げる「菊」くらいのもので、
あとは、私が最近存在を知った「あやとり」、ナウル共和国の「テリハボクの花」とか、バヌアツ共和国の「ライアの花」
他はあまり思い当たらないんじゃなかろーか?と。。。
ちなみに、テリハボクというのはナウルの「国の木」なのだそうです。
材木として、そして薬や燃料として重宝されたテリハボクは、ナウルに無くてはならない植物であったのだとか。
ナウル共和国は、
太平洋南西部はメラネシアに浮かぶ周囲約19kmの珊瑚礁の島であり、そのまま共和制の主権独立国家。
行政区は存在するものの規模の都合から都市を存在させる必要性が薄く存在していない為首都と呼ばれる都市は無く、便宜上ヤレンという行政区を首都扱いとするのが通常のようです。
また、植民地であった経緯からイギリス連邦加盟国であり、
歴史的には、ドイツ、オーストラリア、アメリカにも占領され、第二次世界大戦当時には日本軍による占領もあった。しかし、現在日本との国交は正常で、むしろ友好的。国連に於ける日本の常任理事国入りに賛成しているのだそうです。
ただし、地球温暖化による海面上昇、主産出のリン鉱石事業の不振などの問題を抱え、あまり豊かな国ではないようで、オーストラリアや日本から無償資金援助も行われているのだとか。
「朝顔」「菊」「テリハボクの花」
このみっつについては、実はどれも自分自身では「とり方」を知らなかったりする上に、今のところ覚える気も無いのですが、
「朝顔」は「あやとりいととり2」という書籍。
「菊」は手元にありませんので特定できませんが、恐らく色々な書籍。
に掲載されているようですし、
たぶん日本の民間伝承系のあやとりなので、探せばネット上でも公開されているような気がします。あくまでもたぶんm(_ _)m
「テリハボクの花」については、
掲載されている一般書籍を知りません。というか、日本で普通に手に入る日本語の書籍はたぶんありません?
が、海外の書籍や、国際あやとり協会発行の「あやとりマガジン」にはその掲載があるようです。
ただ、この「テリハボクの花」の完成形を画像で見る限りになりますが、
恐らく"String Figures and How to Make Them"という洋書籍内で「曇りの太陽」として完成形が掲載されていたり、
もしくは『あやとり 太陽』なんてなキーワードでヒットするネット上の某サイトで「太陽」として紹介されていた「パターン」があって、
その「太陽」部分を三つ並べ、左右を絞り込んだ状態に良く似ているような気がします。
ちなみに、
「太陽」の「とり方」、またその増やし方は、ISFAトピックス「No.086 変化の技法」に「タウマコの溜池」という名前で紹介されています。
これが掲載されている書籍は、私には不明m(_ _)m
んで、
これが、私が唯一「とり方」を覚えている「花」のあやとり。
1923年、オーストラリアの北西約1600kmに位置するニューヘブリジーズ諸島。先のナウルと同じくイギリス連邦加盟国である現在のバヌアツ共和国から採取されたのだという「ライアの花」
このパターンの上下を逆にすると「ライアの実」
ちなみに、私は「ライア」という植物を特定できませんでした(^^;
しかし、写真では判断し難いのかも知れませんが、立体的でとても「花」らしく可愛らしい、心和む「あやとり」なのではないかと私は思います。
「とり方」は、
「世界のあやとり」(1998年~:東京書店)
に掲載があります。
もしも取り急ぎネットで確認するのなら、前述の「太陽」が紹介されていた某サイトにもありました。
その某サイトは、たくさんの「作品」の「とり方」を、写真入でとても丁寧に解説なさっているので、宜しければググってみて下さいm(_ _)m
ところで、
「花」の「作品」については、やはり色の問題もあり、そもそも繊細さを要求される造形であろうかと思われるので、
個人的見解ながら、まあ、造花クラフトや土金属の置物系なんかは別として、恐らく「あやとり」よりも、前に「悪魔」で引っ張り出してきた「折り紙」のほうに軍配が上がろうかと思われます。
例えば、
「薔薇」
この折り紙は、考案者である川崎敏和という方のお名前から「川崎ローズ」と呼ばれているらしいです。
「折り紙」は基本的に日本独特の文化のひとつともされており、こちらは世界的にも有名な作品なのだとか。
念のためというか、写真の「薔薇」は、素直にヘタです。
恐らくわりと正確に折られていますが、花びらを整える作業がヘタで、「らしく」仕上がっていないし、触り過ぎてヨレヨレんなっちゃってるし(--;
この「薔薇」は、キッチリカッチリ折れるだけで完全には成立せず、花びら部分は仕上げの自由度が高い為、厳密には「同じものは二度と出来ない」性質の作品だと思われます。
故に、花びららしく仕上げられるセンス、繊細な感性が不可欠。それを持たない私のような人間がやると、こんな風にヨレヨレなカンジになってしまうんですね。
とりあえず、アタシャ小賢しい手先の器用さを多少自負しており、何かしらにつけ「模倣」もしくは「作品意図の追跡」に関しては若干の自信を持ちますが、
「折り紙」そのものが上手なワケでは決して無く、また、この「薔薇」の花びら整形のような「創意」に関しては素直に得手としません。
自分で書くのもなんですが、ぶっちゃけ「創作」に至っては、クズ同然ですし(^^;
たぶん「折り紙」に於いて、
「小さく折ることが出来る」ということと「綺麗に仕上げる」ことは、恐らく同列では無いと思われますし、
アタシャいわゆる「センス」ってものが欠如した脳内構造かと思われるので、こういう折り紙は恐らくダメなほうだと思います。
よって、
この写真程度の「薔薇」は本来の「川崎ローズ」とは言えず、上手な「折り手」による作品は、アタシ如きが折ったモノとはそれこそモノが違います。
いまのところ「模倣には若干の自信」と自ら吐きつつも真似すらできていません。ええ、ひょっとしたらずーっとムリかもくらいのイキオイで(--ゞ
『川崎ローズ』でググってみるとご理解頂けようかと思われますが、美しいものは本当に美しい。めっちゃビューティホーかつワンダホー、しかもパねぇエクセレントな「作品」を目にします。
だから、世界に誇る「川崎ローズ」は、こんなモンじゃねース。
もっと、ゼンゼン、キッパリと美しい「作品」です。くれぐれも誤解の無いようにm(_ _)m
さて、
とりあえず言い訳は済ませたので(^^;ゞ
どうやら「川崎ローズ」にもいくつかの種類があるようなんですが、
私がこの折り紙を見たのは
「折り紙 夢WORLD」(2001年~:朝日出版社)
という書籍。
この本の折り紙は、前の「悪魔」のように「スーパーコンプレックス系」とか呼ばれる(らしいです)ような、ある意味複雑怪奇とも言えてしまう折り紙ではなく、とても基本的というか、
なんちゅーか、「鶴」なんかよりは遥かに複雑だろうし、凝った作品が多いですけれど、一般人というか子供にも優しいというか、妙に難しくないんですね。
解説にも数学だの幾何学だのは、、、
たぶん出てこなかったように思います(^^;アクマデモタブン・・・
この「薔薇」も、特殊っぽいのは「ねじり折り」とかって部分くらいで、それだって別にもの凄く器用じゃないとできないようなものではない。とっつきのようなものさえクリアできれば、割とアッサリできてしまう。
また、手順も少なく折り方を記憶するのも容易い。
だから、多少図解の解読が子供に難しいものであったのだとしても、自分が出来るようになれば小学生とかの子供にも「伝承」出来る。
私個人の持つ折り紙のイメージになってしまいますが、とても折り紙らしい折り紙ばかりで、
「腕試し」的な意味合いから言えばもの足りなく思ってしまうのかも知れませんが、家族で和気藹々出来る非常に優れた本だと私は感じましたm(_ _)m
んで、
30mm四辺の折り紙による「川崎ローズ」
やっぱ、小さくやってはみるのね。つかこっちのが気合入るのね(^^)
この辺が「薔薇」に見える限界、、、かなぁ?
いや、もうちょっとイケそうな気もしないでもないなぁ、みたいなようなどうかしら?みたいな。。。
私、覚えると、どーしても一度は小さく折ってみたくなるんですね・・・
なんちゅーか、ある種の持病みたいなモンなんでしょうね(^^;;
おしまいm(_ _)m
でかるちゃあ⑨ "superstitious" [その他]
由来や発祥は諸説。
故にハッキリしませんが、
古来、日本では「針を刺す」「縫う」という行為や、そうして出来上がった「縫い目」になんらかの霊的な力が宿ると考えられ、
その「縫い目」や「縫いつけられたもの」には「魔を除ける」効果が期待されていたようです。
例えば、士農工商といった階級制度が存在した時代には当然のように、恐らくはそれ以前から「刺し子着」のように、布を丈夫に、かつ防寒性を高め着心地を良くする為に針を刺すことがあっただろうと思われるので、もしかするとそういう故事に由来するのかも知れませんが、
たぶん、ひと針ひと針「縫う」という作業に込められる「想い」のようなもの、その「心」が魔を除ける力を宿すのだと考えられたのだろうと思われる、特に合理的科学的根拠を持たない知識。
いわゆる「俗信」。まあ、言葉として悪くなってしまいますが、「迷信」だとしても良いのだろうと思います。
この場合の災厄とは、主に病気や怪我、そして死。その他人生にしばしば訪れてしまう不幸な出来事。
それらをもたらす魔を「縫い目」によって除ける。
あるいは、魔を避ける事によって結果的に武運長久や出世、無病息災や長寿を願う。
この類の「俗信」ですぐに思い当たるのは、たぶん「千人針」でしょうか。
「縫い目」と同じく「千人針」もその発祥がよく判らないらしいので確信できませんが、比較的新しい風習であるかも知れないと考えられるらしいので、
「縫い目」に何らかの霊的な力が宿るという古来からの「迷信」に由来するものであると考えるのは自然な流れにあるのではないか?と私は思います。
「千人針」に限らず、日本には、というか世界中にあるんですが、とりあえず日本には「合力祈願」という考え方があり、多くの人が力を合わせ祈ることで願い事を成就させようとする風習がありました。
代表的とされるのは、旱魃の際の「雨乞い」、嵐を鎮める「風祭」、虫害を払う「虫送り」
日本で「まつり」と呼ばれる類は、基本的にこの「合力祈願」という考え方から始まっていると言って良いのかも知れません。
また、「背紋」
紋付の背中の中心には「家紋」が縫われています。恐らく、一般的にはこれが「背紋」
これも由来が不明ですが、古来日本では魔物は背後から忍び寄るもので「魔は背中から入る」とされていたらしく、
その「魔除け」として紋付の背中には「家紋」が縫われるようになったのだとか。
「家紋」の起源は鎌倉初期から戦場で使用された軍旗や飾りといった「旗指物」求められるとされており、
そこには「紋」の原型となる簡略化された図形が描かれていたらしいです。恐らく刺繍されていたものも多かったのではないかと思います。
これらは、敵味方を識別する目印としての役割と共に神の降りる場所、「依代」となるものだとも考えられていたのだとか。
やがて戦乱が収まると、その図形は「家紋」として受け継がれていったようです。
そして、「背守り」
現在では、お宮詣りの産着や七五三参りの着物で背に刺繍したり押し絵を縫ったりするもの。
鶴や打ち出の小槌などの図形や、あるいは縫いつけられたお守りや小豆の小袋などを「背守り」と呼ぶようです。
その由来は、着物が主流であった時代に子供の着物の背中に縫われていた「背守り」と呼ばれる糸や図形。
「魔は背中から」入り、それを除けるのは「縫い目」
大人の着物には反物を併せる背縫いがあり、それが魔除けとなりますが、
反物の幅で足りてしまい併せの背縫い、すなわち「縫い目」を持たない子供のひとつ身の着物は魔に対して無防備。
だから、「背守り」という「縫い目」をつけて魔除けとしていたようです。
例えば、
羽子板遊びは「無患子(むくろじ)」という木の種を使って作った羽根を、病を運んでくる虫に見立てて羽子板で払うという意味があるらしく、
染めや塗りの「朱」の由来は疱瘡除けなのだそうです。
過去いつの時代であっても、せっかく赤ちゃんを授かったとしてもいまの日本のように「無事大人になれて普通」という世の中ではきっとなかったのでしょう。
水疱瘡や盲腸、虫歯や発熱ですら簡単に人の死んでしまう時代。恐らくその生存率は低かったと予想されます。
いまの大人が子供をないがしろにしているとは断じて思いませんが、
そこには、まだ幼くか弱い子供達を神様や迷信にすがってでも「守りたい」という、かつての人々の、ある意味いまよりも切実ですらある「想い」が込められているような気がします。
「背守り」には、
そういう「想い」、願いがひと針ひと針込められていたのかも知れませんね。
日本の綾取り「お守り」
あるいは「背守り」「かざり」「蜘蛛の巣」とも呼ばれているようです。
1975年に「さいとうたま」という方が広島県で採集なさったものなのだとか。
写真は娘がとった「あやとり」ですが、自分自身でとってみて、私はこれをとても美しい「パターン」だと感じました。
ちなみにとり方は、
「世界あやとり紀行-精霊の遊戯-」(2006年~:INAX出版)
という本に載っています。
この「あやとり」のとり方が書籍に掲載されたのは初めてのことらしいです。
「風習」は、ひとが創ります。
故に、ひとの生活が変わればその「風習」も変わる。古くて時代にそぐわないものは忘れられるし、消えていく。
至極当然のこと。あたりまえだと思います。
忘れて。また新しいものを創り出す。それこそが「ひと」であろうかと。
「背守り」なんてな「風習」は、恐らく、もはや現代の生活にはそぐわないものであり、その存在は忘れられて然るべきものでさえあるのかも知れません。
けれど、
私は、たぶん、どこのどんな時代であろうとも、生まれてきた我が子の健康で健やかな成長を願わない親なんていないんじゃないかと思うんですね。
それは一方的なエゴだと子供に決して理解されないものであったのだとしても、
たとえなにかの不幸で事実そう育てられなかったのだとしても、
悲しくもその願いを抱き続けることが適わないことがあったのだとしても、
そういう「想い」を最初から持たなかった者などこの世にひとりも居ないし、かつていなかった。
そして、これからもいないと思っています。本当に。
こういう「想い」ってのは、別に親から子供へと向けられるだけのものではありません。
その逆、子から親へも。そして、伴侶、肉親、友人、隣人、知人。あるいは、見知らぬ「どこかの誰か」
「長生きしてね」、「合格してね」、「はやく良くなってね」、「出来ると良いね」
そういう「想い」は、わりと素直に「ひと」を取り囲むものであるのかも知れません。
けれど、
あると分かっていても、忘れる。
覚えていても、普段意識することは少ない。
それがきっと「良いこと」なのだろうと解かってはいても、
自身の「欲」のほうが勝つこともあり、むしろ勝ったほうが良い場合もあり、ひと筋に「こうである」とは決められず、しばしば迷う。
また、日々に追われ、生活に疲れ、知らぬ間に綻び、磨り減り、ともすれば消えてしまおうとする。
そういう「想い」
言い換えるのなら「愛情」みたいなものに由来を持つのだという「あやとり」が、この「お守り」なのだとか。
「お守り」は、やはりとても美しい「あやとり」なのではないかと私は思います。
「お守り」を「とる」ことで、時折目にすることで、忘れない。
その「想い」はいつの時代にも「普通」にあったのだと知る。
いまも、そしてこれからも「自分」はそういう「想い」の中にあり、
あるいは「自分」もその「想い」を「誰か」に向けることが出来るのかも知れない。
それは、
たぶん、もう一度。
そして、
何度でも m(_ _)m