唐突に、映画の勝手解釈です。 [その他]
いやぁ、まあ、いつかというか、とりあえずでもブログが存在している間にいっかいはやってみたかったんですよね(^^;
とゆーわけで、いま現在思いつく限りのメジャーと書いて無謀。
タイトルは、「アナと雪の女王」(2013 原題:FROZEN)
本作は、言わずと知れたディズニーのCGアニメーション。
レリゴ~♪ レリゴ~♪ なんつって、興行収入もサントラの売れ行きもまだ怒涛の勢いとか。
私自身は、まず松たか子さんの歌う Let it go だけのシーンを娘に観せられたところからこの作品と出会いました。映像元は you tube で、上映前からオフィシャルに公開されていたものなのだとか。
その時の感想は、「なんだコレ?」
だって、どこでその情報を得たのか忘れてしまいました(たぶん妻から)が、鑑賞前に伝聞したアウトラインから察するに、あのシーンで表現されているのは、紛う事無き"閉塞"であります。
なぜ彼女(エルサ)は、「すこぉ~しも寒くないわ♪」なんつって、あれほど希望に満ち溢れた力強い音楽と歌詞に乗せて、分厚く強固な氷の壁に覆われた城を築き自らを閉ざしていくのか?
むしろ内側から殻を打ち破って外へと飛び出し、他者あるいは自己矛盾、もしくは取り巻く環境世界と和解するようなシーンで使用されるべきと思われるような音楽情動の中で、なぜ彼女はあんなに嬉しそうに"ひとりぼっち"になろうとするのか?
どう考えても「さびしい」とか「むなしい」とか、そういう誰もわかってくれない的な、世を儚むとでもいうのか、致し方なく閉じ篭らざるを得ないような表現で表されるべきシーンではないのか?
なぜだ? なんだこれは? どういう文脈のシーンなんだ?
しかもなんちゅー映像快楽。音楽だって良い。ちょーアガるじゃん。
俄然興味が出たワケです。CGアニメ嫌いじゃねーし。
で、観に行きました。
初見の感想は、「なんだかなぁ・・・」
なんというか、毒にも薬にもなりゃしねー。
CGは素晴らしい。無機物表現では、もはやかつての無機物CG革新アニメだと思われるウォーリー(WALL-E)なんぞ(いや、今でも大好きな作品なんですが^^;)の比ではない。音楽も最高。いいところでいい音楽が流れ、観る者の情動を高めます。
けれど、話の中身はスッカスカで、それこそウォーリーのような優れたメタ視点などない。「愛」なんてな普遍とはいえ多種多様で然りのテーマを「愛とは自分よりも相手を思うこと」なんて、オラフという雪だるまに作中セリフでハッキリと語らせる。要は、伝え方含め主たるメッセージの贈り方がやけにチープに感じられたワケです。
恋物語としては寸足らず。悪役はやたらと中途半端。冒険らしい冒険も無く緊張感が希薄で、お約束のように、いや、完全にお約束としてやってくる見え見えのハッピー・エバー・アフター。
これさー、子供には良いのかも知れないけどさぁ、大人のオイラにゃちょいとヌルいし納得いかねーんだけどぉ?
みたいな・・・
結局はCG技術の映像快楽と音楽情動先行なのね。肝心とも言える物語は二の次なのね。と、私は自身の感想をいったん自身の中に形作りました。
が、しかし。
鑑賞後のしばし、「ちょっと待て」と私自身が私に問う。
本当に。本当に、そんな映画だったか? だとしたら、お前はこの作品が嫌いなのか?
答えは、否。
違うんですね。嫌いじゃあない。初見の「なんだかなぁ・・・」という、ある種「つまらない」とさえ烙印を押しかねない感想の中に、なにか、こう、それだけではない何かがこの作品を「好きじゃない」と確信させない。
これは、ちょっと不思議な感覚でした。
意識的な、理性的な判断では「たぶんつまらない」んだよ、と。でも「嫌いじゃない」と感じるんだよ、と。
いや、なんならもう一回観たいとさえ思う。それは、むしろ「好き」なんじゃないのか?
では、それは、その「好き」は、いったい何か? その正体は何者であったのか?
どうしても気になったので、もう一回観てみました。
こういう時は、まず原点に立ち返るってことで、原作を予習してから。
あ、そうそう。ちなみにこの先、原作についても映画についても物凄い勢いでネタバレありっス(^^;ゞ
ストーリーを知りたくない方は、どうかここまでにm(_ _)m
さて、この作品の原作は、童話の古典。アンデルセンの「雪の女王」であります。
もはや原型を留めていないのでは? というほどキャラやストーリーは改変されていますが、しかし、原作と呼ぶのであれば、根底に流れるテーマやプロットはある程度共有しているはずだという仮定のもと、はるか昔に読み、そして改めてネットで補完した「雪の女王」
原作のストーリーは・・・
それは、ゲルダという少女とカイという少年の物語。
二人はお向かいどうしで大の仲良し。一緒に絵本を読んだり、おばあさんから色々なお話を聞いたりしながら楽しく暮らしていた。
そんな中、ゲルダはカイに賛美歌を教える。
「バラの花 咲きては散りぬ 幼子イエス やがて仰がん」
ある日、悪魔の落とした"鏡"が砕け、その破片がカイの目と心臓に突き刺さった。
それにより、カイの目は、善いものや美しいものを小さく、醜いものや役に立たないものを大きく映すようになり、その心は氷のように冷たくなってしまう。それまで仲良しだったゲルダに向かって、カイは「お前なんか大嫌いだ」と言い始め、彼は、乱暴で、人を嘲るような少年になってしまった。
やがて冬になり、ゲルダから離れたカイは、ひとりでソリ遊びをしているとき雪の女王に魅入られ、遥か北の果てにある氷の世界「北の国」へと連れ去られてしまった。
ゲルダは行方不明になったカイを探し出して連れ戻そうと決意し、川を下って出発。まずはとある老婆の元へと至るのだが、その老婆は魔女。ゲルダは彼女を手元に留めようとした魔女によって美しい花園へと導かれ、カイの事を忘れさせられてしまう。
が、
「バラの花 咲きては散りぬ 幼子イエス やがて仰がん」
魔女の帽子に描かれたバラを見て、彼女は賛美歌と共に自分がカイを探していたことを思い出して再出発。
その後ゲルダは、自然や動物と対話できるという特殊な能力を用い、また、様々な人々や動物の協力も得つつ、山賊の娘から譲り受けたトナカイを駆り、やがて雪の女王の城へとたどり着く。
その城は雪で出来た異形の警備兵に護られておりゲルダは苦戦するが、祈りの力で天使を呼び出しこれを撃破。
やっとの思いでゲルダがカイを見つけたとき、幸運なことに雪の女王はカイに氷の欠片で「永遠」という言葉を作る事が出来たら「この世界とスケートの靴をあげる」と言い残し、火山でも見物してこようかと暖かい国に出かけていて留守だった。
しかし、苦難の末にやっと見つけたカイだったが、彼は雪の女王のキスで寒さを感じなくなっており、冷たく、身動きすら出来ないほどに凍えていた。
ゲルダはカイを抱きしめ、泣く。彼を失いたくなかったから。
すると、彼女から流れ落ちた熱い涙がカイの心臓に突き刺さっていた鏡の破片を消し去り、彼は本来の心を取り戻した。
心を取り戻したカイはゲルダをかつての仲良しの瞳で見つめ、ゲルダは二人の思い出であるバラの賛美歌を歌い始める。
「バラの花 咲きては散りぬ 幼子イエス やがて仰がん」
歌はカイの涙を誘い、流れる涙が彼の目に突き刺さっていた鏡の破片を洗い流すと、再会を喜び合う二人に呼応した鏡の破片が踊りだし「永遠」の文字を形作った。
こうして雪の女王の城を出た二人は、ゲルダが旅路で出会った全てに祝福されながら、春に故郷へと帰り着く。
故郷の土を踏み、日常が戻り。二人は何もかもが元通りになったと感じるが、気がつくと、夏。
おばあさんが言う。
「汝ら、もし幼子の如くならずば、天国に入ることをえじ」
二人は歌う。
「バラの花 咲きては散りぬ 幼子イエス やがて仰がん」
彼らは子供のように純粋な心を持ったまま、大人になっていたのだった。
と、いうような物語だったはず。間違ってたらすみません。
特徴的なのは、主役が優れた能力と強い主体性を持った少女であり、救出を待つのが基本受身な少年であること。つまりは少女の冒険譚。
これは、様々な協力者を得た少女が超自然的で強力な存在や数々の苦難を乗り越え愛する少年との再会を果たし共に歩み始めるという物語。
春という幼さの中で出会う誘惑や過ち、冬という乗り越えるべき苦難。夏という謳歌と幸福。人生の季節は巡り、やがて信仰が彼らを天国へと導くだろうと示される。
文章は7部構成。テーマは愛情と成長。そして、死。賛美歌の意味を通しての信仰解釈。すなわち宗教的意味もあります。
恐らくそこに見い出されるのは、命を賭けて貫く「真実の愛」が持つ、その"力"。
で、ここからはアナと雪の女王。
このお話は、アレンデールという王国に住む二人の王女の物語。
お話は、触れる物を凍らせ雪を操るという魔力を持って生まれた姉(エルサ)と魔力を持たない妹(アナ)が、とても仲の良い姉妹であるという前提から始まります。
しかし、雪遊びの最中、エルサがアナを庇った際に、誤ってアナの頭に氷の魔法が撃ち込まれてしまうという事件が起こり、これが原因で妹は姉の持つ魔法の事を忘れなければならなくなってしまう。
ここからエルサの孤独が幕を開け、やがて全ての事情を知り彼女を理解していた優しい両親を事故で失ってしまうに至り、彼女は魔法の存在について一人で秘匿し続けなければならなくなる。
やがて女王となる王女として過ごしながら、手袋で魔力を隠し、城門を閉ざし、可能な限りを部屋に閉じ篭って一人で過ごし、だから、とても孤独。
彼女の住む城には妹のアナ以外にも従者や給仕などたくさんの人がいるはずですが、作中この段階では恐らくほぼ登場しておらず、彼女と、そしてまた、アナの持つ"なぜ姉は自分を避けるのか?"という、やはり孤独感を描いているようでした。
流れる音楽は、「雪だるま作ろう」(Do you want to build a snowman)
アナが歌います。
「雪だるま作ろう。ドアを開けて」
けれど、月日は二人の孤独を癒しません。エルサが閉ざされたドアを開くことは、決してありませんでした。
そんな日々の中で、エルサは戴冠式を迎えることになります。
式は盛大に執り行われるらしく、やって来るたくさんの来賓のため大量の食器などが準備され始める。ということは、当然、それらを迎えるため、めったと開かれることのなかった城門が解放される事になる。
音楽は、「生まれて初めて」(For the first time in forever)
エルサはその魔力故にこれを恐れ、アナは開かれる城門に外界への希望を予感し胸躍らせる。
この後、アナは白馬に乗って現れた他国の王子、ハンスという青年と出会って意気投合。サクサクと恋に落ち。一方、エルサは不安を強めながら戴冠式を迎える準備を進めていた。
結局、戴冠式そのものはなんとか魔力を隠蔽することに成功し無事終了するものの、その後のパーティ会場でアナがハンスと結婚すると言いはじめてしまい。唐突過ぎる、認められないと話を打ち切り去ろうとするエルサをアナが引きとめようとした弾みで魔力を隠していた手袋が片方取れてしまう。
うろたえるエルサ。エルサの動揺を理解せず追いすがるアナ。そして、不意の切っ掛けで放たれてしまう氷の魔力。
文字通り凍りつくのは、会場そのもの。
混乱の中で、ついさっきまで和やかに祝福されていたはずの女性は、魔女と呼ばれる。
これねー、ここのところはどう考えてもアナが悪い。奔放キャラで行動力があるのはいいんですが、なんてーか、短慮に過ぎる。周囲に対する配慮が無さ過ぎ。
などと思いながら見ていたのですが、考えてみると、アナもまた孤独だったんですね。そして気配り教育というか、そういう訓練もされていない。
自分のあずかり知らぬ事情から閉じられたままの城門の中だけでずっと暮らしてきたし、友達だっていないし、仲が良かったはずのお姉さんはある日を境に部屋に閉じ篭りっきりで全然相手してくれない。両親だって失っている。
だから、この時の彼女の行動は、突発的な短慮に見えるけれど必然でもあるわけです。たぶん、彼女に他の人の、エルサの気持ちを推し量れといっても、それは難しい。事情があって仕方がないとはいえ、そもそもエルサだって彼女の気持ちを推し量ったりはしていない。エルサは城門を閉ざし部屋に閉じ篭ることでアナの孤独を助長し、そのケアをしてこなかったのですから。
そんなこんなで。
衆人環視の中で魔法の力を使ってしまったエルサは城を飛び出し「北の山」へと逃げることになってしまう。
逃げ延びたエルサは、冷たい雪の中をただひとりうつむいて歩く。
とうとうバレてしまった。ひとりになってしまった。もう、戻れない。
けれど、歩みを進めつつ、ふと彼女は気づく。
これで、ひょっとしたら自分は楽になれたのではないか?
彼女は徐々に生気を取り戻し、やがて片方だけ残されていた手袋を投げ捨てた。
音楽は「ありのままで」(Let it go)
エルサは歌う。
「少しも寒くないわ」
このシーンで描かれるのは、解放。
長い長い抑圧から解き放たれたエルサは、もう秘密の漏洩を恐れることはない。これからは良い子を演じる必要もない。自分は自由なのだと、いままで押さえつけてきた自身の魔法の力、すなわち"特殊性"を全力で周囲に放つ。
すると、まず最初にスノーマンのオラフが生まれる。彼は命を持った雪ダルマであり、幼い頃アナと二人で作った思い出の雪ダルマの姿をしていた。
自分はいったいどこまでやれるのか?
どんどんどんどん力を解放し、彼女はとうとう巨大な氷の城を築き上げるまでに至る。
そうだ。これがあたし。ここが、この凍てついた世界こそがあたしの居るべき場所なのだ。
王女のティアラ。つまりは柵や責任という重圧を投げ捨て、氷のドレスに身を包み、思うさま能力を解放する彼女の姿は「ありのままの自分」
風よ吹け。あたしの中の嵐よ強く吹き荒べ。
これでいいのだ。こうして自分はまるで大空へと飛び立つかのように新しい一歩を踏み出すのだと高らかに歌うエルサに応えるかのように、朝日に包まれた氷の城は美しく光り輝く。
そして、閉塞を完了するリフレイン。
「少しも寒くないわ」
もう、あたしを悩ませるものなど何もない。
シーンのラスト。まるでせいせいしたとでもいうかのように粗雑に、しかしピッタリと固く閉ざされた扉は彼女の心。何もかもを失い、いや、捨てて。だからこその自由。
ひとりぼっちの、自由。
雪深い山の高み。分厚い氷の壁に閉ざされた彼女だけの城は、けれど、たった一筋の細い階段で地上と繋がっていた。
と、まあ・・・
ここまで観て。私は YOU TUBE で観た"ありの~♪ ままで~♪"の意味をやっと理解。かなりスッキリしました(^^)
さて、エルサの持つ魔力は本人にも制御しきれないほど強力で、彼女の意思ではないものの、結局は国そのものを夏から冬に変え、深い雪の中に閉じ込めてしまう。
紆余曲折あって。
姉に帰ってきて欲しい。そして、エルサならば国を夏に戻せるはずだと考えたアナは、クリストフという氷商人(?)の青年。そしてその愛トナカイであるスヴェン。更にスノーマンのオラフを協力者に得てエルサを迎えに氷の城を訪れますが、エルサは帰ろうとはせず、彼女らを魔法の力で追い返す。
ここでも、音楽は「生まれて初めて」
一緒に帰ろう。アレンデールが深い雪に包まれてしまって危機なのだと歌うアナに、エルサは、自分自身の魔法とはいえ自分にはどうしようもないのだと絶望しながら帰ってくれと歌い。ふたりの心はすれ違ってしまいます。
この時弾みでアナの心臓にエルサの魔法で生まれた氷の欠片が突き刺さり、アナは徐々に凍りつき始めてしまいますが、エルサはそれに気づいていません。
完全に凍り付いてしまえば、そこに待つのは死。
アナを救う方法はただひとつ。彼女が「真実の愛」を手に入れること。
「真実の愛」といえば「白馬の王子様」とのキス。眠れる森の美女的展開ですね。
というわけで、アナはクリストフの協力のもとハンスのいるアレンデールへと急ぐのですが、これは結果的に成就しません。
というか、御観賞頂ければ一目瞭然なのですが「真実の愛」とやらがハンスとのキスじゃないなとは思ってた。けど、そうくるとも思ってなかった。みたいな「えー・・・(--;」的な唐突展開が待っています。
ハンスはヴィラン。すなわち、悪役。
このあたりで、オラフの「愛とは自分よりも相手を思うこと」というセリフが登場。
ちなみに彼は雪ダルマなので、国が夏に戻ってしまうと溶けて消えてしまう存在。しかし、だからこそ夏に強い憧れを持ってもいるキャラクター。
彼は歌います。
「暑い夏と寒い冬。ふたつ合わせたらもっといい」
※あこがれの夏(In Summer)
じゃあ、ってんで、今度は苦楽を共に冒険してきたパートナー。クリストフがアナに「真実の愛」を与える者であるのかも知れない。ということが暗に示され、どうやらそのように物語が一点へと収束し始める。
一方、氷の城に閉じ篭るエルサを捕らえに城の兵士たちがやってくるのですが、その中に他国の暗殺者が含まれていたりとかもしておりまして、激しい立ち回りの末、エルサは牢獄へ。
が、そこはさすがに雪の女王。魔法の力で拘束を砕き、石の壁をぶち破って外へと逃げる。
外は猛吹雪。恐らくはエルサの乱れた精神状態が反映されているのであろう尋常ではない冷気と暴風の世界。
逃げる彼女を追う追跡者はハンス。彼はアナがエルサの魔法で凍りつき死んでしまう事を知っていたので、それをネタに、というか「お前がアナを殺したんだ」とエルサの心を揺さぶり、彼女を追い詰めます。
妹を自分のせいで失ってしまったと打ちひしがれるエルサはその場に崩れ落ちる。
ここぞチャンスとばかりに手にした剣を振り上げるハンス。
ハンスには、どうしても王になりたいという欲望があった。しかし、上の兄弟が多く自国では王になれないという事情を抱えており、この国で王になろうと企んでいた。だから、夏を取り戻し、かつ、王族を排除してしまいたい。
しかし、その様子をアナが見ていた。
ほぼ凍りつきながらもアナはまだ生きており、彼女は姉を助けねばと最後の力を振り絞りエルサのもとへと急ぐ。
さらにその場所へと駆けつけるのは、愛トナカイを駆り吹雪の中を疾走するクリストフ。
ここでアナは選択を迫られます。
それは、クリストフとキスをして自分の命を救うか。あるいは姉の命を救おうと行動するのか。
アナの右手には、今まさにエルサに向かって振り下ろされんとする刃が光り、その左手には、自らの危険も顧みず自分を救おうと必死に駆けるクリストフの姿。
微かな逡巡の後、アナが選んだ命は、姉。
彼女は躊躇うことなく剣と姉の間に割って入り、そこでとうとう全身が凍りついてしまう。
しかし、ハンスの剣が氷の彫像のようになってしまったアナの指先に触れたその瞬間、鋼鉄の剣は砕け散り、衝撃がハンスを吹き飛ばす。
姉を救ったアナ。しかし、残されていた最後の息吹が、まるで彼女の命の終わりを告げるかの如くに口元から立ち昇る。
既に氷の塊と化したアナにすがりつき、エルサは涙を流します。
すると、熱い涙は心臓に突き刺さった氷の欠片を溶かし、ゆっくりと色を取り戻していくアナ。
ここで描かれているのが、オラフ曰くの愛。
この作品のメインテーマである「愛とは自分よりも相手を思うこと」
すなわちアナが「真実の愛」を手に入れるシーン。
自らの淡い恋心を諦め、その命を捨て、姉のために身を呈したアナ。だからこそ、その指先に刃の触れた瞬間「真実の愛」は成就し、本来であれば脆く砕かれてしまうはずの氷像から鋼鉄を砕くほどの"力"が放たれる。
つまり、愛ってのは、野郎とのキスなんかで得られるようなお手軽簡単なものじゃないんだよ、と。
そしてまた、この時エルサも「真実の愛」を得ているものと考えられます。故にエルサは自身の内にある嵐を鎮め、魔法の力を制御できるまでに心を安定させる。
その後は、もうハッピーエンドに向かってまっしぐら。
「生まれて初めて」のオーケストラが朗らかに流れる中、アレンデールの景色は夏。
アナは冒険で壊してしまったクリストフのソリの代わりに最新型のソリと氷運びの仕事を彼にプレゼント。ふたりは初めてのキスを交わします。
オラフは戻った夏に溶け滅びそうになりますが、自分専用の雪雲をエルサにもらって復活。夏を思う様に満喫。
今回の一件で魔法を制御することの出来るようになったエルサは国の人々に受け入れられ、皆のために城内広場を解放。真夏の石畳を凍らせてスケート場に。
そのスケート場に現れたアナにエルサは魔法でスケート靴をプレゼントし、滑れぬ彼女の手を満面の笑顔で引く。
ラストには「雪だるまつくろう」の旋律に乗せたファンファーレが鳴り響き、もはや必要以上に閉ざされることのない城門には、たくさんの人々の行き交う姿があった。
とまあ、ストーリーはざっくりこんなカンジ。
さて、まあ、私の文章力の問題はさておき、こうやってトレースしてみても、アナと雪の女王のストーリーに際立った魅力を感じるような斬新なプロットがあったと私には思えません。
大きく3部。恐らく14程度のブロック。人物やストーリーに大幅な改変を経ていながらも「愛」とその"力"という原作と共有するテーマはキッチリと描かれていますが、単純にストーリーだけを追うなら、割と定番的な。例えばナイトメア・ビフォア・クリスマスや塔の上のラプンツェルなんかのほうが格段に面白かったような気がする。
キャラクターだって際立って目新しいとか、びっくりするほど魅力的だとか、たぶん、そういうのでもない。個人的に気に入ったのはオラフですが、オラフも異形のキャラだと思えばそれほど奇異な言動も行動もしない。非常に常識的な性格づけであるので、各々キャラの特徴が全体的に薄いような気がするし、それぞれの行動の動機付けも、特に悪役ハンスなんか悪役である必要性すらないほどに浅い気がしたし、アナに至っては、主役であるにもかかわらずそれほど感情移入できる人物像でも、たぶん、ない。
が、しかし。
現実として私はこの物語を気に入り、しかも複数回観賞するに至っている。そして、観賞後には、どうしても、こう、なんというか、「受け取り損ねたメッセージ」のようなものが残ってしまうんですね。
それはいったいなんだったんだろう? ってんで、今回の記事を書いてみようと思ったワケなんですが。
とりあえず、表向きというか、ハッキリと示される「愛」というテーマと同時に改めて私が見い出したテーマは「暴力」でした。
なんじゃそりゃ? と思われてしまうのかも知れませんが、要はエルサの持つ魔法の力を純粋に「暴力」と捉え直してみると、本人の意志や理性では押さえきれずに振るわれてしまう「暴力」というような意味づけが、なんとなく見えてはこないでしょうか?
例えば、それが環境に因るものであったのか、あるいは個の持つ資質であったのか、そんなことは本人にもわからない。けれど、ふと気がつけば、その先に促される健やかな成長や心の平穏など望むべくもないとわかっているのに、つい我が子を殴ってしまう。そしてそれを深く後悔するにもかかわらず、どうしても繰り返してしまう母親をエルサに投影してみる。
その「暴力」は、私だって嫌なんだ。辛いんだ。どうしてこんなことにと心の中で泣き叫びながら、それでも「なぜ誰にも、目の前にいる子供にさえわかってもらえないのか」という孤独の中で、どうしようもなく繰り返される。
なんなら、アナを傷つけまいと避け続けるエルサの姿は、ある種のネグレクトのように見えなくもない。
この場合は、暴力や支配で満足や快楽を得るような、そういう基地の外にお住まいの方々を示しているのではなく、あくまでも救いようのある。いや、救われるべき「暴力」として物語を見る事が出来ます。
そうですね。本来無条件で愛すべき近親者への加害者さえ望まぬ「暴力」というような、そんなテーマです。
さて。
アナと雪の女王の主役は、言わずもがな、アナです。物語は彼女を主軸とし多く語られています。
アナとゲルダの共通点は、少女であること。また、"連れ戻そうとする者"であること。
自発的で活発。意志と行動力があり、活動的なヒロイン像。アナのほうは、好奇心が強く、恋にも憧れる多感な少女としても描かれています。
思い返してみれば、ポカホンタスやムーランくらいからでしょうか? ディズニーアニメには活動的で主体性の強いヒロインが多く描かれているように思われます。
違っているのは、ゲルダの持つ特殊な対話能力がアナには無い点。
彼女はリアリティのある"人間"として。多くの主人公がそうであるように"普通"であることの象徴。ある種の基準として物語の主軸に据えられている。
一方、サブの主役(?)であるエルサは、雪の女王として描かれていますが、触れるものを凍らせたり、氷の城を築いたり、作り出したスノーマンに命を与えるような強大な魔法の力を持ってはいるものの、原作ではほとんど神がかり的で超然とした存在として描かれる雪の女王とは明らかに一線を画し、彼女もまた、特殊な能力を生まれ持ちつつも、あくまでもアナと同じく"人間"として描かれています。
そして、二人は姉妹。血を分けた存在。
すなわち、エルサはアナ=普通の存在にとってあり得たかも知れないもうひとつの可能性。もうひとつの人生。もう一人の自分。
これは、観客。私にとっても同じことを意味します。
アナというニュートラルな主人公を通し垣間見る自身の姿と、その視点を介し想像するエルサというもう一人の自分の姿。
"普通"と"特殊"
その両面を必ず併せ持ってしまう人間という存在としての、自分。
ひとの持つ特殊性は"個性"と言い換えることも出来る。なんなら"価値観"でもいいです。どちらにどう感情移入せよというのではない。あえてどちらに感情移入する必要もない。ただ、そこにある程度人間の持つ特殊性や二面性のようなものを感じ取りさえすればいい。どちらも"人間"であるのだと認識することさえ出来ればそれで成立してしまう、ある意味主人公らしくない、しかしだからこそ強くニュートラルでもあるという、
実は、完全にふたりでひとりの主人公。
恐らくは、ふたりの対比をハッキリとさせるためアナは動物や自然と対話する特殊能力を持たなかったのではないか? と私は考えました。彼女はあくまでも"普通"の人間でなければならなかったのではないか? と。
例えば、自由奔放、素直で明るい。お人好し。以上に、まるで聖人のような高潔さや、あるいは天才的な知性や、光り輝くほどの美しさなどの要素をアナが持たないのも同様の理由なのではないでしょうか。これは深読みに過ぎませんが、二の腕のそばかす表現に違和感を抱いたのは私だけではない筈。
ここでちなみに、メインテーマである「愛」について。
原作は少女ゲルダを主体とした少年カイとの物語であり、淡いものですが、二人の恋心は盗賊の娘のセリフによって(前述のあらすじでは省いています)作中確かに説明されていて、その成就がハッピーエンドを構成する重要な要素として機能しています。
しかし、映画ではそもそもが少女と少女の物語に変更されており、恋愛要素は偽白馬の王子であるハンスと、協力者、すなわち良きパートナーであるクリストフが登場することで描かれ、アナとクリストフが恋愛係となる事がエンディングで示されてはいますが、それは「真実の愛」足り得ないのではないかと途中で否定されているので、恋愛という要素は原作と大きく違う扱われ方をしているように思われます。
これを端的に整理するならば、
ハンス =白馬の王子との恋。
クリストフ =良きパートナーとの出会い。
エルサ =姉も自分も救った真実の愛。
という三段階で説明されている。
なんですが、だからといって、この作品は恋愛について否定的である。あるいは、そんなものは「真実の愛」ではないと完全否定しているのではない。
それは、恐らく"これから育まれていくもの"として扱われているように思われます。
つまり、言葉巧みで優しさや誠実さを押し付ける偽王子様など論外。また、良きパートナー足りえる男性であったとしても、その相手とのキス。すなわち恋愛の成就そのものはある種のスタートラインでしかなく、そこから互いに育て合い、やがて「真実の愛」へと成長させる事の出来る可能性を持ったものが恋愛なのだよ、と。
作中アナがキスをするのは大団円時にクリストフと交わす一度のみなのですが、もしもアナが姉よりクリストフを選んでいたとしたならば、やはり彼女の魔法は解けなかったと考えられるので、恋愛というのはあくまでも「真実の愛」へと至る可能性に過ぎないものなのだと本作は示しているように思えます。
同じく、先に私の提示した「暴力」についても、三段階で捉えることができます。
戴冠式終了まで =行為や事象の説明。葛藤と隠蔽。
氷の城での閉塞まで =露呈もしくはカミングアウト。そして、逃避もしくは隔離。安易な解決。問題の先送り。
大団円まで =対話と理解を通しての和解。社会との融和。真の解決。
しかし、この三段階。私がたまたま「暴力」と限定しただけで、それ以外にもたくさんのテーマを浮かび上がらせることが出来るのではないかと思うんですね。
例えば、「障害」や「人種」、「国籍」といったあからさまに差別対象となる事の多いものであったり、「価値観」や「道徳」といった観念的なものであったり。
つまり、この作品の魅力について私が導き出すことの出来たひとつの答えは「汎用性」です。「愛」という原作と共有のメインテーマと同時進行で描かれた、それは「普遍性」と言い換えても良いのかも知れません。
だから、原作にあった「宗教」という要素は根こそぎ取り払われている。それは、様々な宗教を信じる人々と既に神を失った人々の複雑に混在する現代においてはそれ自体がこの作品のテーマと成り得る要素でもあるから。
これも、実際にはそれほど斬新というか新しいというか、そういうものではないんです。そもそも物語なんだから当たり前だとも言える。それこそ原作となっている童話というジャンルは物語を象徴的に描く事で様々な事象や感情の本質を浮かび上がらせようとするもの。映画だって多くの場合それを目指して創作されるもの。
ただし、いま現在最新のCG映像と優れた音楽を用いて生み出されたこの作品は、陳腐な解釈で申し訳ありませんが、恐らく「現代の童話」を目指しているのだと思われます。なんなら、「最新鋭の昔話」と言ってもいい。
それも、魔法、お姫様、白馬の王子、主体的なヒロイン、自己啓発、社会との融和などといった、これまでディズニーアニメのたどってきた歴史を順を追いながら踏襲しつつの物語。
この作品の骨組みから感じ取れるのは、かなりベーシックなもの。つまりは、新たな定番足らんとする意思のようなものだと思うんですね。
だからこそ。
だからこそ、であります。
私は眼前にハッキリと示される「愛」というテーマに寄り添う「普遍性」を、最新の映像快楽と上質の音楽情動の中に我知らず見い出し、そして惹かれたのではないだろうかと結論付けます。
それはたぶん。
いつか読み解いた、懐かしくも新しい昔話のように。
m(_ _)m
とゆーわけで、いま現在思いつく限りのメジャーと書いて無謀。
タイトルは、「アナと雪の女王」(2013 原題:FROZEN)
本作は、言わずと知れたディズニーのCGアニメーション。
レリゴ~♪ レリゴ~♪ なんつって、興行収入もサントラの売れ行きもまだ怒涛の勢いとか。
私自身は、まず松たか子さんの歌う Let it go だけのシーンを娘に観せられたところからこの作品と出会いました。映像元は you tube で、上映前からオフィシャルに公開されていたものなのだとか。
その時の感想は、「なんだコレ?」
だって、どこでその情報を得たのか忘れてしまいました(たぶん妻から)が、鑑賞前に伝聞したアウトラインから察するに、あのシーンで表現されているのは、紛う事無き"閉塞"であります。
なぜ彼女(エルサ)は、「すこぉ~しも寒くないわ♪」なんつって、あれほど希望に満ち溢れた力強い音楽と歌詞に乗せて、分厚く強固な氷の壁に覆われた城を築き自らを閉ざしていくのか?
むしろ内側から殻を打ち破って外へと飛び出し、他者あるいは自己矛盾、もしくは取り巻く環境世界と和解するようなシーンで使用されるべきと思われるような音楽情動の中で、なぜ彼女はあんなに嬉しそうに"ひとりぼっち"になろうとするのか?
どう考えても「さびしい」とか「むなしい」とか、そういう誰もわかってくれない的な、世を儚むとでもいうのか、致し方なく閉じ篭らざるを得ないような表現で表されるべきシーンではないのか?
なぜだ? なんだこれは? どういう文脈のシーンなんだ?
しかもなんちゅー映像快楽。音楽だって良い。ちょーアガるじゃん。
俄然興味が出たワケです。CGアニメ嫌いじゃねーし。
で、観に行きました。
初見の感想は、「なんだかなぁ・・・」
なんというか、毒にも薬にもなりゃしねー。
CGは素晴らしい。無機物表現では、もはやかつての無機物CG革新アニメだと思われるウォーリー(WALL-E)なんぞ(いや、今でも大好きな作品なんですが^^;)の比ではない。音楽も最高。いいところでいい音楽が流れ、観る者の情動を高めます。
けれど、話の中身はスッカスカで、それこそウォーリーのような優れたメタ視点などない。「愛」なんてな普遍とはいえ多種多様で然りのテーマを「愛とは自分よりも相手を思うこと」なんて、オラフという雪だるまに作中セリフでハッキリと語らせる。要は、伝え方含め主たるメッセージの贈り方がやけにチープに感じられたワケです。
恋物語としては寸足らず。悪役はやたらと中途半端。冒険らしい冒険も無く緊張感が希薄で、お約束のように、いや、完全にお約束としてやってくる見え見えのハッピー・エバー・アフター。
これさー、子供には良いのかも知れないけどさぁ、大人のオイラにゃちょいとヌルいし納得いかねーんだけどぉ?
みたいな・・・
結局はCG技術の映像快楽と音楽情動先行なのね。肝心とも言える物語は二の次なのね。と、私は自身の感想をいったん自身の中に形作りました。
が、しかし。
鑑賞後のしばし、「ちょっと待て」と私自身が私に問う。
本当に。本当に、そんな映画だったか? だとしたら、お前はこの作品が嫌いなのか?
答えは、否。
違うんですね。嫌いじゃあない。初見の「なんだかなぁ・・・」という、ある種「つまらない」とさえ烙印を押しかねない感想の中に、なにか、こう、それだけではない何かがこの作品を「好きじゃない」と確信させない。
これは、ちょっと不思議な感覚でした。
意識的な、理性的な判断では「たぶんつまらない」んだよ、と。でも「嫌いじゃない」と感じるんだよ、と。
いや、なんならもう一回観たいとさえ思う。それは、むしろ「好き」なんじゃないのか?
では、それは、その「好き」は、いったい何か? その正体は何者であったのか?
どうしても気になったので、もう一回観てみました。
こういう時は、まず原点に立ち返るってことで、原作を予習してから。
あ、そうそう。ちなみにこの先、原作についても映画についても物凄い勢いでネタバレありっス(^^;ゞ
ストーリーを知りたくない方は、どうかここまでにm(_ _)m
さて、この作品の原作は、童話の古典。アンデルセンの「雪の女王」であります。
もはや原型を留めていないのでは? というほどキャラやストーリーは改変されていますが、しかし、原作と呼ぶのであれば、根底に流れるテーマやプロットはある程度共有しているはずだという仮定のもと、はるか昔に読み、そして改めてネットで補完した「雪の女王」
原作のストーリーは・・・
それは、ゲルダという少女とカイという少年の物語。
二人はお向かいどうしで大の仲良し。一緒に絵本を読んだり、おばあさんから色々なお話を聞いたりしながら楽しく暮らしていた。
そんな中、ゲルダはカイに賛美歌を教える。
「バラの花 咲きては散りぬ 幼子イエス やがて仰がん」
ある日、悪魔の落とした"鏡"が砕け、その破片がカイの目と心臓に突き刺さった。
それにより、カイの目は、善いものや美しいものを小さく、醜いものや役に立たないものを大きく映すようになり、その心は氷のように冷たくなってしまう。それまで仲良しだったゲルダに向かって、カイは「お前なんか大嫌いだ」と言い始め、彼は、乱暴で、人を嘲るような少年になってしまった。
やがて冬になり、ゲルダから離れたカイは、ひとりでソリ遊びをしているとき雪の女王に魅入られ、遥か北の果てにある氷の世界「北の国」へと連れ去られてしまった。
ゲルダは行方不明になったカイを探し出して連れ戻そうと決意し、川を下って出発。まずはとある老婆の元へと至るのだが、その老婆は魔女。ゲルダは彼女を手元に留めようとした魔女によって美しい花園へと導かれ、カイの事を忘れさせられてしまう。
が、
「バラの花 咲きては散りぬ 幼子イエス やがて仰がん」
魔女の帽子に描かれたバラを見て、彼女は賛美歌と共に自分がカイを探していたことを思い出して再出発。
その後ゲルダは、自然や動物と対話できるという特殊な能力を用い、また、様々な人々や動物の協力も得つつ、山賊の娘から譲り受けたトナカイを駆り、やがて雪の女王の城へとたどり着く。
その城は雪で出来た異形の警備兵に護られておりゲルダは苦戦するが、祈りの力で天使を呼び出しこれを撃破。
やっとの思いでゲルダがカイを見つけたとき、幸運なことに雪の女王はカイに氷の欠片で「永遠」という言葉を作る事が出来たら「この世界とスケートの靴をあげる」と言い残し、火山でも見物してこようかと暖かい国に出かけていて留守だった。
しかし、苦難の末にやっと見つけたカイだったが、彼は雪の女王のキスで寒さを感じなくなっており、冷たく、身動きすら出来ないほどに凍えていた。
ゲルダはカイを抱きしめ、泣く。彼を失いたくなかったから。
すると、彼女から流れ落ちた熱い涙がカイの心臓に突き刺さっていた鏡の破片を消し去り、彼は本来の心を取り戻した。
心を取り戻したカイはゲルダをかつての仲良しの瞳で見つめ、ゲルダは二人の思い出であるバラの賛美歌を歌い始める。
「バラの花 咲きては散りぬ 幼子イエス やがて仰がん」
歌はカイの涙を誘い、流れる涙が彼の目に突き刺さっていた鏡の破片を洗い流すと、再会を喜び合う二人に呼応した鏡の破片が踊りだし「永遠」の文字を形作った。
こうして雪の女王の城を出た二人は、ゲルダが旅路で出会った全てに祝福されながら、春に故郷へと帰り着く。
故郷の土を踏み、日常が戻り。二人は何もかもが元通りになったと感じるが、気がつくと、夏。
おばあさんが言う。
「汝ら、もし幼子の如くならずば、天国に入ることをえじ」
二人は歌う。
「バラの花 咲きては散りぬ 幼子イエス やがて仰がん」
彼らは子供のように純粋な心を持ったまま、大人になっていたのだった。
と、いうような物語だったはず。間違ってたらすみません。
特徴的なのは、主役が優れた能力と強い主体性を持った少女であり、救出を待つのが基本受身な少年であること。つまりは少女の冒険譚。
これは、様々な協力者を得た少女が超自然的で強力な存在や数々の苦難を乗り越え愛する少年との再会を果たし共に歩み始めるという物語。
春という幼さの中で出会う誘惑や過ち、冬という乗り越えるべき苦難。夏という謳歌と幸福。人生の季節は巡り、やがて信仰が彼らを天国へと導くだろうと示される。
文章は7部構成。テーマは愛情と成長。そして、死。賛美歌の意味を通しての信仰解釈。すなわち宗教的意味もあります。
恐らくそこに見い出されるのは、命を賭けて貫く「真実の愛」が持つ、その"力"。
で、ここからはアナと雪の女王。
このお話は、アレンデールという王国に住む二人の王女の物語。
お話は、触れる物を凍らせ雪を操るという魔力を持って生まれた姉(エルサ)と魔力を持たない妹(アナ)が、とても仲の良い姉妹であるという前提から始まります。
しかし、雪遊びの最中、エルサがアナを庇った際に、誤ってアナの頭に氷の魔法が撃ち込まれてしまうという事件が起こり、これが原因で妹は姉の持つ魔法の事を忘れなければならなくなってしまう。
ここからエルサの孤独が幕を開け、やがて全ての事情を知り彼女を理解していた優しい両親を事故で失ってしまうに至り、彼女は魔法の存在について一人で秘匿し続けなければならなくなる。
やがて女王となる王女として過ごしながら、手袋で魔力を隠し、城門を閉ざし、可能な限りを部屋に閉じ篭って一人で過ごし、だから、とても孤独。
彼女の住む城には妹のアナ以外にも従者や給仕などたくさんの人がいるはずですが、作中この段階では恐らくほぼ登場しておらず、彼女と、そしてまた、アナの持つ"なぜ姉は自分を避けるのか?"という、やはり孤独感を描いているようでした。
流れる音楽は、「雪だるま作ろう」(Do you want to build a snowman)
アナが歌います。
「雪だるま作ろう。ドアを開けて」
けれど、月日は二人の孤独を癒しません。エルサが閉ざされたドアを開くことは、決してありませんでした。
そんな日々の中で、エルサは戴冠式を迎えることになります。
式は盛大に執り行われるらしく、やって来るたくさんの来賓のため大量の食器などが準備され始める。ということは、当然、それらを迎えるため、めったと開かれることのなかった城門が解放される事になる。
音楽は、「生まれて初めて」(For the first time in forever)
エルサはその魔力故にこれを恐れ、アナは開かれる城門に外界への希望を予感し胸躍らせる。
この後、アナは白馬に乗って現れた他国の王子、ハンスという青年と出会って意気投合。サクサクと恋に落ち。一方、エルサは不安を強めながら戴冠式を迎える準備を進めていた。
結局、戴冠式そのものはなんとか魔力を隠蔽することに成功し無事終了するものの、その後のパーティ会場でアナがハンスと結婚すると言いはじめてしまい。唐突過ぎる、認められないと話を打ち切り去ろうとするエルサをアナが引きとめようとした弾みで魔力を隠していた手袋が片方取れてしまう。
うろたえるエルサ。エルサの動揺を理解せず追いすがるアナ。そして、不意の切っ掛けで放たれてしまう氷の魔力。
文字通り凍りつくのは、会場そのもの。
混乱の中で、ついさっきまで和やかに祝福されていたはずの女性は、魔女と呼ばれる。
これねー、ここのところはどう考えてもアナが悪い。奔放キャラで行動力があるのはいいんですが、なんてーか、短慮に過ぎる。周囲に対する配慮が無さ過ぎ。
などと思いながら見ていたのですが、考えてみると、アナもまた孤独だったんですね。そして気配り教育というか、そういう訓練もされていない。
自分のあずかり知らぬ事情から閉じられたままの城門の中だけでずっと暮らしてきたし、友達だっていないし、仲が良かったはずのお姉さんはある日を境に部屋に閉じ篭りっきりで全然相手してくれない。両親だって失っている。
だから、この時の彼女の行動は、突発的な短慮に見えるけれど必然でもあるわけです。たぶん、彼女に他の人の、エルサの気持ちを推し量れといっても、それは難しい。事情があって仕方がないとはいえ、そもそもエルサだって彼女の気持ちを推し量ったりはしていない。エルサは城門を閉ざし部屋に閉じ篭ることでアナの孤独を助長し、そのケアをしてこなかったのですから。
そんなこんなで。
衆人環視の中で魔法の力を使ってしまったエルサは城を飛び出し「北の山」へと逃げることになってしまう。
逃げ延びたエルサは、冷たい雪の中をただひとりうつむいて歩く。
とうとうバレてしまった。ひとりになってしまった。もう、戻れない。
けれど、歩みを進めつつ、ふと彼女は気づく。
これで、ひょっとしたら自分は楽になれたのではないか?
彼女は徐々に生気を取り戻し、やがて片方だけ残されていた手袋を投げ捨てた。
音楽は「ありのままで」(Let it go)
エルサは歌う。
「少しも寒くないわ」
このシーンで描かれるのは、解放。
長い長い抑圧から解き放たれたエルサは、もう秘密の漏洩を恐れることはない。これからは良い子を演じる必要もない。自分は自由なのだと、いままで押さえつけてきた自身の魔法の力、すなわち"特殊性"を全力で周囲に放つ。
すると、まず最初にスノーマンのオラフが生まれる。彼は命を持った雪ダルマであり、幼い頃アナと二人で作った思い出の雪ダルマの姿をしていた。
自分はいったいどこまでやれるのか?
どんどんどんどん力を解放し、彼女はとうとう巨大な氷の城を築き上げるまでに至る。
そうだ。これがあたし。ここが、この凍てついた世界こそがあたしの居るべき場所なのだ。
王女のティアラ。つまりは柵や責任という重圧を投げ捨て、氷のドレスに身を包み、思うさま能力を解放する彼女の姿は「ありのままの自分」
風よ吹け。あたしの中の嵐よ強く吹き荒べ。
これでいいのだ。こうして自分はまるで大空へと飛び立つかのように新しい一歩を踏み出すのだと高らかに歌うエルサに応えるかのように、朝日に包まれた氷の城は美しく光り輝く。
そして、閉塞を完了するリフレイン。
「少しも寒くないわ」
もう、あたしを悩ませるものなど何もない。
シーンのラスト。まるでせいせいしたとでもいうかのように粗雑に、しかしピッタリと固く閉ざされた扉は彼女の心。何もかもを失い、いや、捨てて。だからこその自由。
ひとりぼっちの、自由。
雪深い山の高み。分厚い氷の壁に閉ざされた彼女だけの城は、けれど、たった一筋の細い階段で地上と繋がっていた。
と、まあ・・・
ここまで観て。私は YOU TUBE で観た"ありの~♪ ままで~♪"の意味をやっと理解。かなりスッキリしました(^^)
さて、エルサの持つ魔力は本人にも制御しきれないほど強力で、彼女の意思ではないものの、結局は国そのものを夏から冬に変え、深い雪の中に閉じ込めてしまう。
紆余曲折あって。
姉に帰ってきて欲しい。そして、エルサならば国を夏に戻せるはずだと考えたアナは、クリストフという氷商人(?)の青年。そしてその愛トナカイであるスヴェン。更にスノーマンのオラフを協力者に得てエルサを迎えに氷の城を訪れますが、エルサは帰ろうとはせず、彼女らを魔法の力で追い返す。
ここでも、音楽は「生まれて初めて」
一緒に帰ろう。アレンデールが深い雪に包まれてしまって危機なのだと歌うアナに、エルサは、自分自身の魔法とはいえ自分にはどうしようもないのだと絶望しながら帰ってくれと歌い。ふたりの心はすれ違ってしまいます。
この時弾みでアナの心臓にエルサの魔法で生まれた氷の欠片が突き刺さり、アナは徐々に凍りつき始めてしまいますが、エルサはそれに気づいていません。
完全に凍り付いてしまえば、そこに待つのは死。
アナを救う方法はただひとつ。彼女が「真実の愛」を手に入れること。
「真実の愛」といえば「白馬の王子様」とのキス。眠れる森の美女的展開ですね。
というわけで、アナはクリストフの協力のもとハンスのいるアレンデールへと急ぐのですが、これは結果的に成就しません。
というか、御観賞頂ければ一目瞭然なのですが「真実の愛」とやらがハンスとのキスじゃないなとは思ってた。けど、そうくるとも思ってなかった。みたいな「えー・・・(--;」的な唐突展開が待っています。
ハンスはヴィラン。すなわち、悪役。
このあたりで、オラフの「愛とは自分よりも相手を思うこと」というセリフが登場。
ちなみに彼は雪ダルマなので、国が夏に戻ってしまうと溶けて消えてしまう存在。しかし、だからこそ夏に強い憧れを持ってもいるキャラクター。
彼は歌います。
「暑い夏と寒い冬。ふたつ合わせたらもっといい」
※あこがれの夏(In Summer)
じゃあ、ってんで、今度は苦楽を共に冒険してきたパートナー。クリストフがアナに「真実の愛」を与える者であるのかも知れない。ということが暗に示され、どうやらそのように物語が一点へと収束し始める。
一方、氷の城に閉じ篭るエルサを捕らえに城の兵士たちがやってくるのですが、その中に他国の暗殺者が含まれていたりとかもしておりまして、激しい立ち回りの末、エルサは牢獄へ。
が、そこはさすがに雪の女王。魔法の力で拘束を砕き、石の壁をぶち破って外へと逃げる。
外は猛吹雪。恐らくはエルサの乱れた精神状態が反映されているのであろう尋常ではない冷気と暴風の世界。
逃げる彼女を追う追跡者はハンス。彼はアナがエルサの魔法で凍りつき死んでしまう事を知っていたので、それをネタに、というか「お前がアナを殺したんだ」とエルサの心を揺さぶり、彼女を追い詰めます。
妹を自分のせいで失ってしまったと打ちひしがれるエルサはその場に崩れ落ちる。
ここぞチャンスとばかりに手にした剣を振り上げるハンス。
ハンスには、どうしても王になりたいという欲望があった。しかし、上の兄弟が多く自国では王になれないという事情を抱えており、この国で王になろうと企んでいた。だから、夏を取り戻し、かつ、王族を排除してしまいたい。
しかし、その様子をアナが見ていた。
ほぼ凍りつきながらもアナはまだ生きており、彼女は姉を助けねばと最後の力を振り絞りエルサのもとへと急ぐ。
さらにその場所へと駆けつけるのは、愛トナカイを駆り吹雪の中を疾走するクリストフ。
ここでアナは選択を迫られます。
それは、クリストフとキスをして自分の命を救うか。あるいは姉の命を救おうと行動するのか。
アナの右手には、今まさにエルサに向かって振り下ろされんとする刃が光り、その左手には、自らの危険も顧みず自分を救おうと必死に駆けるクリストフの姿。
微かな逡巡の後、アナが選んだ命は、姉。
彼女は躊躇うことなく剣と姉の間に割って入り、そこでとうとう全身が凍りついてしまう。
しかし、ハンスの剣が氷の彫像のようになってしまったアナの指先に触れたその瞬間、鋼鉄の剣は砕け散り、衝撃がハンスを吹き飛ばす。
姉を救ったアナ。しかし、残されていた最後の息吹が、まるで彼女の命の終わりを告げるかの如くに口元から立ち昇る。
既に氷の塊と化したアナにすがりつき、エルサは涙を流します。
すると、熱い涙は心臓に突き刺さった氷の欠片を溶かし、ゆっくりと色を取り戻していくアナ。
ここで描かれているのが、オラフ曰くの愛。
この作品のメインテーマである「愛とは自分よりも相手を思うこと」
すなわちアナが「真実の愛」を手に入れるシーン。
自らの淡い恋心を諦め、その命を捨て、姉のために身を呈したアナ。だからこそ、その指先に刃の触れた瞬間「真実の愛」は成就し、本来であれば脆く砕かれてしまうはずの氷像から鋼鉄を砕くほどの"力"が放たれる。
つまり、愛ってのは、野郎とのキスなんかで得られるようなお手軽簡単なものじゃないんだよ、と。
そしてまた、この時エルサも「真実の愛」を得ているものと考えられます。故にエルサは自身の内にある嵐を鎮め、魔法の力を制御できるまでに心を安定させる。
その後は、もうハッピーエンドに向かってまっしぐら。
「生まれて初めて」のオーケストラが朗らかに流れる中、アレンデールの景色は夏。
アナは冒険で壊してしまったクリストフのソリの代わりに最新型のソリと氷運びの仕事を彼にプレゼント。ふたりは初めてのキスを交わします。
オラフは戻った夏に溶け滅びそうになりますが、自分専用の雪雲をエルサにもらって復活。夏を思う様に満喫。
今回の一件で魔法を制御することの出来るようになったエルサは国の人々に受け入れられ、皆のために城内広場を解放。真夏の石畳を凍らせてスケート場に。
そのスケート場に現れたアナにエルサは魔法でスケート靴をプレゼントし、滑れぬ彼女の手を満面の笑顔で引く。
ラストには「雪だるまつくろう」の旋律に乗せたファンファーレが鳴り響き、もはや必要以上に閉ざされることのない城門には、たくさんの人々の行き交う姿があった。
とまあ、ストーリーはざっくりこんなカンジ。
さて、まあ、私の文章力の問題はさておき、こうやってトレースしてみても、アナと雪の女王のストーリーに際立った魅力を感じるような斬新なプロットがあったと私には思えません。
大きく3部。恐らく14程度のブロック。人物やストーリーに大幅な改変を経ていながらも「愛」とその"力"という原作と共有するテーマはキッチリと描かれていますが、単純にストーリーだけを追うなら、割と定番的な。例えばナイトメア・ビフォア・クリスマスや塔の上のラプンツェルなんかのほうが格段に面白かったような気がする。
キャラクターだって際立って目新しいとか、びっくりするほど魅力的だとか、たぶん、そういうのでもない。個人的に気に入ったのはオラフですが、オラフも異形のキャラだと思えばそれほど奇異な言動も行動もしない。非常に常識的な性格づけであるので、各々キャラの特徴が全体的に薄いような気がするし、それぞれの行動の動機付けも、特に悪役ハンスなんか悪役である必要性すらないほどに浅い気がしたし、アナに至っては、主役であるにもかかわらずそれほど感情移入できる人物像でも、たぶん、ない。
が、しかし。
現実として私はこの物語を気に入り、しかも複数回観賞するに至っている。そして、観賞後には、どうしても、こう、なんというか、「受け取り損ねたメッセージ」のようなものが残ってしまうんですね。
それはいったいなんだったんだろう? ってんで、今回の記事を書いてみようと思ったワケなんですが。
とりあえず、表向きというか、ハッキリと示される「愛」というテーマと同時に改めて私が見い出したテーマは「暴力」でした。
なんじゃそりゃ? と思われてしまうのかも知れませんが、要はエルサの持つ魔法の力を純粋に「暴力」と捉え直してみると、本人の意志や理性では押さえきれずに振るわれてしまう「暴力」というような意味づけが、なんとなく見えてはこないでしょうか?
例えば、それが環境に因るものであったのか、あるいは個の持つ資質であったのか、そんなことは本人にもわからない。けれど、ふと気がつけば、その先に促される健やかな成長や心の平穏など望むべくもないとわかっているのに、つい我が子を殴ってしまう。そしてそれを深く後悔するにもかかわらず、どうしても繰り返してしまう母親をエルサに投影してみる。
その「暴力」は、私だって嫌なんだ。辛いんだ。どうしてこんなことにと心の中で泣き叫びながら、それでも「なぜ誰にも、目の前にいる子供にさえわかってもらえないのか」という孤独の中で、どうしようもなく繰り返される。
なんなら、アナを傷つけまいと避け続けるエルサの姿は、ある種のネグレクトのように見えなくもない。
この場合は、暴力や支配で満足や快楽を得るような、そういう基地の外にお住まいの方々を示しているのではなく、あくまでも救いようのある。いや、救われるべき「暴力」として物語を見る事が出来ます。
そうですね。本来無条件で愛すべき近親者への加害者さえ望まぬ「暴力」というような、そんなテーマです。
さて。
アナと雪の女王の主役は、言わずもがな、アナです。物語は彼女を主軸とし多く語られています。
アナとゲルダの共通点は、少女であること。また、"連れ戻そうとする者"であること。
自発的で活発。意志と行動力があり、活動的なヒロイン像。アナのほうは、好奇心が強く、恋にも憧れる多感な少女としても描かれています。
思い返してみれば、ポカホンタスやムーランくらいからでしょうか? ディズニーアニメには活動的で主体性の強いヒロインが多く描かれているように思われます。
違っているのは、ゲルダの持つ特殊な対話能力がアナには無い点。
彼女はリアリティのある"人間"として。多くの主人公がそうであるように"普通"であることの象徴。ある種の基準として物語の主軸に据えられている。
一方、サブの主役(?)であるエルサは、雪の女王として描かれていますが、触れるものを凍らせたり、氷の城を築いたり、作り出したスノーマンに命を与えるような強大な魔法の力を持ってはいるものの、原作ではほとんど神がかり的で超然とした存在として描かれる雪の女王とは明らかに一線を画し、彼女もまた、特殊な能力を生まれ持ちつつも、あくまでもアナと同じく"人間"として描かれています。
そして、二人は姉妹。血を分けた存在。
すなわち、エルサはアナ=普通の存在にとってあり得たかも知れないもうひとつの可能性。もうひとつの人生。もう一人の自分。
これは、観客。私にとっても同じことを意味します。
アナというニュートラルな主人公を通し垣間見る自身の姿と、その視点を介し想像するエルサというもう一人の自分の姿。
"普通"と"特殊"
その両面を必ず併せ持ってしまう人間という存在としての、自分。
ひとの持つ特殊性は"個性"と言い換えることも出来る。なんなら"価値観"でもいいです。どちらにどう感情移入せよというのではない。あえてどちらに感情移入する必要もない。ただ、そこにある程度人間の持つ特殊性や二面性のようなものを感じ取りさえすればいい。どちらも"人間"であるのだと認識することさえ出来ればそれで成立してしまう、ある意味主人公らしくない、しかしだからこそ強くニュートラルでもあるという、
実は、完全にふたりでひとりの主人公。
恐らくは、ふたりの対比をハッキリとさせるためアナは動物や自然と対話する特殊能力を持たなかったのではないか? と私は考えました。彼女はあくまでも"普通"の人間でなければならなかったのではないか? と。
例えば、自由奔放、素直で明るい。お人好し。以上に、まるで聖人のような高潔さや、あるいは天才的な知性や、光り輝くほどの美しさなどの要素をアナが持たないのも同様の理由なのではないでしょうか。これは深読みに過ぎませんが、二の腕のそばかす表現に違和感を抱いたのは私だけではない筈。
ここでちなみに、メインテーマである「愛」について。
原作は少女ゲルダを主体とした少年カイとの物語であり、淡いものですが、二人の恋心は盗賊の娘のセリフによって(前述のあらすじでは省いています)作中確かに説明されていて、その成就がハッピーエンドを構成する重要な要素として機能しています。
しかし、映画ではそもそもが少女と少女の物語に変更されており、恋愛要素は偽白馬の王子であるハンスと、協力者、すなわち良きパートナーであるクリストフが登場することで描かれ、アナとクリストフが恋愛係となる事がエンディングで示されてはいますが、それは「真実の愛」足り得ないのではないかと途中で否定されているので、恋愛という要素は原作と大きく違う扱われ方をしているように思われます。
これを端的に整理するならば、
ハンス =白馬の王子との恋。
クリストフ =良きパートナーとの出会い。
エルサ =姉も自分も救った真実の愛。
という三段階で説明されている。
なんですが、だからといって、この作品は恋愛について否定的である。あるいは、そんなものは「真実の愛」ではないと完全否定しているのではない。
それは、恐らく"これから育まれていくもの"として扱われているように思われます。
つまり、言葉巧みで優しさや誠実さを押し付ける偽王子様など論外。また、良きパートナー足りえる男性であったとしても、その相手とのキス。すなわち恋愛の成就そのものはある種のスタートラインでしかなく、そこから互いに育て合い、やがて「真実の愛」へと成長させる事の出来る可能性を持ったものが恋愛なのだよ、と。
作中アナがキスをするのは大団円時にクリストフと交わす一度のみなのですが、もしもアナが姉よりクリストフを選んでいたとしたならば、やはり彼女の魔法は解けなかったと考えられるので、恋愛というのはあくまでも「真実の愛」へと至る可能性に過ぎないものなのだと本作は示しているように思えます。
同じく、先に私の提示した「暴力」についても、三段階で捉えることができます。
戴冠式終了まで =行為や事象の説明。葛藤と隠蔽。
氷の城での閉塞まで =露呈もしくはカミングアウト。そして、逃避もしくは隔離。安易な解決。問題の先送り。
大団円まで =対話と理解を通しての和解。社会との融和。真の解決。
しかし、この三段階。私がたまたま「暴力」と限定しただけで、それ以外にもたくさんのテーマを浮かび上がらせることが出来るのではないかと思うんですね。
例えば、「障害」や「人種」、「国籍」といったあからさまに差別対象となる事の多いものであったり、「価値観」や「道徳」といった観念的なものであったり。
つまり、この作品の魅力について私が導き出すことの出来たひとつの答えは「汎用性」です。「愛」という原作と共有のメインテーマと同時進行で描かれた、それは「普遍性」と言い換えても良いのかも知れません。
だから、原作にあった「宗教」という要素は根こそぎ取り払われている。それは、様々な宗教を信じる人々と既に神を失った人々の複雑に混在する現代においてはそれ自体がこの作品のテーマと成り得る要素でもあるから。
これも、実際にはそれほど斬新というか新しいというか、そういうものではないんです。そもそも物語なんだから当たり前だとも言える。それこそ原作となっている童話というジャンルは物語を象徴的に描く事で様々な事象や感情の本質を浮かび上がらせようとするもの。映画だって多くの場合それを目指して創作されるもの。
ただし、いま現在最新のCG映像と優れた音楽を用いて生み出されたこの作品は、陳腐な解釈で申し訳ありませんが、恐らく「現代の童話」を目指しているのだと思われます。なんなら、「最新鋭の昔話」と言ってもいい。
それも、魔法、お姫様、白馬の王子、主体的なヒロイン、自己啓発、社会との融和などといった、これまでディズニーアニメのたどってきた歴史を順を追いながら踏襲しつつの物語。
この作品の骨組みから感じ取れるのは、かなりベーシックなもの。つまりは、新たな定番足らんとする意思のようなものだと思うんですね。
だからこそ。
だからこそ、であります。
私は眼前にハッキリと示される「愛」というテーマに寄り添う「普遍性」を、最新の映像快楽と上質の音楽情動の中に我知らず見い出し、そして惹かれたのではないだろうかと結論付けます。
それはたぶん。
いつか読み解いた、懐かしくも新しい昔話のように。
m(_ _)m
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