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人体実験 -序- [ライト関連]

 

その「特殊な感覚」を呼び覚ますのは、

懐中電灯の持ち方ひとつ、対象への向け方ひとつ、視線の配り方ひとつ。


点灯消灯のタイミング、照度切り替えの的確さ、他者への配慮。

携帯方法、扱いの様子、仕舞いの速さ。


常に"EDC"をしている人間は、常に"EDC"をしているが故に闇に落ちたときの対応が素早く、いわゆる「抜き撃ち」も速い傾向にあり、

常に「誰か」と行動する使い方の者は、常に誰かと行動しているが故に他者の視界を阻害することを自然に避け、自分の懐中電灯がその瞬間どこを向いているのかを把握し光を制御しようとする傾向にある。


彼らは、

それが使い慣れたモノであるのか、普段は使わないモノであるのか、

あるいは、ある程度使ってはいても性能を完全には把握していないモノであるのか。

また、その様子からその「誰か」がどの程度の頻度でどのように懐中電灯を使用しているのかを、ほぼ無意識の範疇で、しかし意識的に予想する。

 

懐中電灯と夜のアウトドアにまったく趣味の無い方だと、恐らくにわかには信じ難かったりするのかも知れませんが、

「そういう人種」ってのは、

例えば剣道経験者の人物がいたとして、どこかの「誰か」が1m 程度の真っ直ぐな棒切れを拾って扱う様を見て、その「誰か」が剣道や居合い、合気道(木刀も使って練習します)、杖術などといった「なんらかの経験者」であることが漠然と判断できてしまうかのように、

懐中電灯への「慣れ」あるいは「訓練」もしくは「研究」された様子が、しばらく「誰か」と行動を共にしていると漠然と感じられてくることがあると思われ、

「誰か」と共に懐中電灯を使って闇を歩けば、その「誰か」がどの程度懐中電灯を使って闇を歩くことに慣れているのかがなんとなく判ったりするようです。本当に(^^;


もちろんというか、先入観とか状況、人物的な印象なんてのに左右されてしまいますので絶対ではありませんが、

時には、その性格や嗜好も行動に表れることがある。


仮に「誰か」が初見の懐中電灯を手に持ったとして、


まず真っ先に自分の顔を照らし光を覗き込み「眩しいかどうか」を見ようとする者は、ほぼ懐中電灯に趣味が無い。

まず真っ先に自分の掌を照らしその「色や動き」を見る者は、ほぼ近距離想定のライトが好き。

まず真っ先に中距離、あるいは長距離を向け「飛びや景色」を見る者は、ほぼ距離照射に強いライトが好き。


また、

少しスイッチを試し、すぐに筐体を見る者はコレクター属性を持つことが多く、


そして、

少しスイッチを試し、すぐさまヘッドやテールを外そうと試みる者は、だいたい廃人(--ゞ


いや、まあ、なんちゅーか、

恐らくウチみたいな妙なトコを度々読んで頂けているような希少種で、しかもライトオフなんてな酔狂なイベントにご参加のような方々には、もしかすると「至って普通」のことであったりかとは思われつつも、

今まで「一般」のどなた様にも共感を得たことがありませんし、ライトオフやスカイプですらこのような話をした記憶もありません。


恐らく、「一般」とはかけ離れ、「そういう人種」ではあまりにも当然。故に、そのどちらに居ても話題となったことが無い。

みたいなことのような気がします。なんとなく。

もしくは、ただ単に私が変わっているだけなのかも知れませんけれどm(_ _)m


私こと川端、趣味としての懐中電灯歴は数年でしかありませんが、"EDC" 歴だけは子供の頃から。

その「ペンライトなんかを持ち歩く子供」的ルーツは「水曜スペシャル川口浩探検隊」まで遡り、ミニMAGになってからですら恐らく四半世紀を超えます。

私には、携帯する道具としての馴染みでいうなら、電話なんぞより遥かに懐中電灯のほうが長いし深い。


故に、

私自身は、今日に至るまで、それは懐中電灯を趣味とする遥か以前から、度々そういう対懐中電灯的な印象を「誰か」に抱いてきました。


「誰か」と闇を共にすれば、

時には、

「あ、このひとウマいな」

みたいなことさえ思ってしまう。

 

さて、

ここで自問してみます。

「それはなぜか?」


なぜ?

私は、「誰か」の懐中電灯を扱う姿や、その闇に於ける歩の進め方を見て、

「誰か」は、懐中電灯に、あるいは闇に、慣れているもしくは不慣れであると判断するに至るのか?

 

結論的には、「経験」です。

自分もやった。いつか「誰か」もやっていた。その時はこうだった。あの時はああだった。そういう「経験」の蓄積が私の判断を促しています。


例えば、

色を失うような星明りもとでは、ヒトの視界は「広くなる」


なぜならば、

ヒトの網膜は、中心部に錐状体が集中し、周辺部分には桿状体が偏在しているから。


ヒトの中心窩(ちゅうしんか)と呼ばれる網膜の中心部分には、強い光に反応して解像度の高い情報を脳へと送る錐体細胞が集中しており、

故にヒトは、狭い範囲、すなわち絞り込まれた範囲に於いて多くの細やかな情報を「ハッキリと見る」ことが出来、

形状、色彩、大きさ、距離、動きなどといったものの複合された「高度な情報」を得た脳がそれを処理し、

そこで始めて「意味」というものを得る術を持つことが許されているようで、

我々が普段「見る」と呼び、かつ「記憶」していると自覚するような情報は、概ねここで得られていると思われます。

そういう意味でヒトの視力範囲は両眼視野の200度に対してとても狭く、読書時などを例にとれば、およそ約300mmの距離において直径約20mm程度。仮に眼球表面を0点としても4度に満たない。


つまり、

ヒトが視力を「集中」させ「意味」のある情報を確実に得ることの出来る範囲は、300mm程度の距離で10円玉くらいのコイン一枚の範囲でしかない。


同時に、

弱い光に反応して、明暗の情報と、解像度は低くとも「動き」の情報とを、

それは、もっとも原始的とも言えるであろうが故に、ともすれば個体としての存続、すなわち生命の危機にさえ直結するかも知れない情報だけを脳へと送る桿体細胞が網膜の周辺部に広く位置することで、

ヒトはある程度の暗闇でも視界の隅に動く「何者か」を発見し、それに対応する術をも持っているようです。


従って、

視覚情報が制限され、桿体細胞が優位に働く暗所に在っては、結果としてヒトの体感視野が「広くなる」

 

私は、錐体だの桿体だのという後付けの知識を得る前から、

暗い場所では自分の視界が順応と共に感覚として広くなり、

懐中電灯の光によって情報量が増えることが返って仇となりその視界を狭くし、結果として不陸な足元や障害配置の把握に弱くなり、場合によっては歩き辛くさえなってしまうことがあるのを経験的に知っていました。

就中、いちばん判り易いんじゃないか?と思うのは、「新月晴天下で見通しのある山道の下り」でしょうか。


故に、「誰か」が、照射のホットスポットを外して自らの視線を扱う様を見て、十分な星明りのもとで消灯しながら進む様を見て、「誰か」もそれを経験的に知っている。つまり「慣れている」のではないか?と予想するに至ることになるわけです。


当然というか、この「広くなる」体感の例以外にも色々あるのですが、

このような懐中電灯的なセオリーらしきもので、「そういう人種」の者は「そういう人種」を見分けるに至るであろう能力を「経験」から「学習」していくことになり、


と、同時に。ですね。


「そういう人種」は、その時「誰か」の見ているのであろう光景をも予想することになる。

それは、恐らくは向上の為。

平たく言えば「自分より上手に懐中電灯の光を扱い闇を進む」人物の視覚世界を予想し、その人物の真似をして「自分」のスキルを高める為に。

 

而して、

世の中には生まれつき視力を持ったことのない人がいます。


それが悲しいことであるのかどうかを断じる術を私自身は持ち合わせませんが、

先天性の視覚障害を持ちながら成人した方がいらしたとして、その方が開眼手術を受けたとしても、そこに健常者の方と同じ視覚世界は無いのだそうで、

彼らがある程度の視力を得るためには、とても時間と労力を必要とするのだとか。


視覚は、

ヒトが大脳新皮質形成前の幼体の頃から脳に対するデバイスとしての目を成長させつつ、

明暗、深視、動き、図形、色彩、立体などといった情報を「見る」という経験を繰り返すことで「刺激」を受けた脳もそういった情報を処理できる機能を持った脳と成長し、

そこで初めて「視覚」として成立する生体システム。


このプロセスを経ずして「正常な視覚として機能することが出来る生体システム」を持ったヒトとなることは出来ないのだそうです。


視覚的な機能の多くは、「臨界期」と呼ばれる幼児期の「身体的基本性能」みたいなものが決まると言われている期間にその根幹が作り上げられるらしく、

それは「臨界期」を過ぎてしまうと、容易には、あるいはどれだけ訓練を積んだとしても、得られないのではないか?とされています。


「臨界期」とは「感受性期」とも呼ばれ、人間だけでなく多くの動物に与えられた「適応」の為のシステム。


例えば、日本人にとって「ヒアリングの難しい言語」圏に日本人が生まれたとしても、多くの場合、その日本人は「ヒアリングの難しい言語」を問題なく完全に聴き取ることが出来るように成長します。

しかし、ある程度日本で成長してから「ヒアリングの難しい言語」圏に生活の場を移しても、多くの場合、その日本人は「ヒアリングの難しい言語」を問題なく完全に聴き取るようになることが出来ません。

これは、人間の「言語を聴き取る」という能力を得ることの出来る時期が限定されている為だと考えられています。


同様に、視覚、嗅覚、触覚、味覚。また、言語以外への聴覚にも能力を得ることの出来る限定された期間が存在すると考えられており、

これは、遺伝子を持つ動物には遺伝情報に組み込まれた様々な「可能性」があり、

その「可能性」の内、外的な刺激によって「必要」とされた部分が優先的に機能するようになる為であり、

その時期に「不要」とされた「可能性」は、あるいは環境適応的な意味に於いて邪魔とされてしまうからなのか、バッサリと切り捨てられてしまう。


その「必要」「不要」を決定づけるとされている時期。それが「臨界期」であるようです。


したがって、

この「臨界期」を逃すと、ヒトはその機能の多くが一般的に正常とされている発達を遂げることが出来ない。


だから、成人後に開眼したとしても、容易に正常とされる視力を得ることが出来ないのだとか。


また、

たとえ生まれは健常の者であったとしても、「臨界期」に於ける「見る」という「経験」から「正常な視力」を得るためには必須の条件があり、

それは「自ら望んで見る」という能動的な「経験」でなければならないと考えられ、

「見えている」あるいは「見せられている」といった受動的な経験だけでは「正常な視覚」が得られない可能性が高いという実験結果があるのだそうです。

 

序の仕舞いm(_ _)m


コメント(10) 
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コメント 10

monozof

むにむにバブー!

・・くらいしか声を出せなかった私も今では「あ」から「ん」までほぼ的確に母音で発声できるようになりました。
今だったらもう呼吸しながらモノ食いながら話しまくるなんて芸当も自由自在でございます!(すな)

いや、これもひとえに日々たゆまない鍛錬の賜物だったんですね。

しかし、川端さんってばやはりすごい勉強量と並外れた理解力なのだなあと関心します。
件の任務も3くらいのつもりでお願いしたのに10の解を頂けた感じ。
うん、これはまさに理想的なもうひとつの観測点だ。



と言うか・・・むしろもう追い越されそうなんですが。。
by monozof (2009-12-18 20:36) 

cinq

うーん、なるほど・・・・
人間って、てか人間の脳ってやっぱり凄いなぁ~

そういえば初めてパチスロやった時、こんな早く回ってる絵柄が見えるわけねぇ!・・・と。
でも、今では普通に見えちゃったりするのも「自ら望んで見よう」としたからなんでしょうねw

>仮に「誰か」が初見の懐中電灯を手に持ったとして・・・
これは良くわかります。
特に一般の人と廃人の反応w
by cinq (2009-12-18 21:01) 

nob

そういえば、いつぞやのオフで手のひらに当てて配光を見たら「やっぱりそうするんですね」と言われたような・・・もっとも、その頃はバラさない人でしたが(^^ゞ

ま、所有数が何本あるか分からなくなってる人は「利ライト」の方法を身につけてるハズ(^ ^)
by nob (2009-12-19 00:00) 

二日酔いの猫

<すぐさまヘッドやテールを外そうと試みる者は、だいたい廃人

げげっ むちゃくちゃ心当たりが・・・・

まぁ私のバヤイ、ライトに限ったことではないんですが(汗)

なんでも3歳頃からドライバー片手におもちゃを分解(破壊だな)していたらしいですから(爆)
by 二日酔いの猫 (2009-12-19 09:25) 

98k

あのう・・・

わたくしの場合、はじめての高級ライトを手にすると、
反射的に所有者の顔を照らそうとするのですが・・・

別に「目くらまし」で、そのライトを奪おうとゆーわけでは・・・
ないっ???
by 98k (2009-12-19 14:26) 

川端

>monozofさん

そうか。monobabyの感覚世界はまだ生まれたてっぽいですものね。。。

ここに登場?しているbabyは、視力に於ける臨界でいうと、今たぶん生後7ヶ月あたりかと思われます(^^;ゞ


>>もうひとつの観測点

ご納得までお付き合いさせて頂ければと考えます。

ちなみにワタクシ「なにかに参加するのなら無理なく出来る範囲で無理のない全力を」をモットーに生きてございますm(_ _)m

ってー、、、

ハタの方にはウザいのかも知れませんね(^^;ダガキットナオラナイ・・・
by 川端 (2009-12-19 21:21) 

川端

>cinqさん

>>高速回転が普通に見える

そうですか。スロットが。。。

アレですね。そのうち停まって見えるようになるのかも知れません。誰だっけ?長嶋?王?みたいに。


そうそう。ヒトが「学習」するのは、基本的に「生き残るため」なのだとか(^^)
by 川端 (2009-12-19 21:22) 

川端

>nobさん

>>掌

あー、申し上げたのかも知れませんね(^^;シツレイシマシタ・・・

しかし、アタシはnobさんがEDCをしない方だってのが、今でも納得できませんが、、、


>>「利」ライト

結局「慣れ」。習慣のものなのでしょうけれど。

能動的に使い倒したほうが「慣れ」も早いようですm(_ _)m
by 川端 (2009-12-19 21:24) 

川端

>二日酔いの猫さん

>>ドライバー片手

知り合いの電機メーカー勤務のヤツがそんなカンジだったようですが、、、

二日酔いの猫さんのお言葉はだいたい理解できそうな気もするのですが、

彼のほうは外に出ないタイプに「適応」したようなので、まあ、アタシには理解不能な言語やシステムに囲まれて生活してはりまんな(^^;
by 川端 (2009-12-19 21:24) 

川端

>98kさん

そーか、、、

それは恐らく遺伝情報に組み込まれた「可能性」が環境に適応しデフォルトのスキルに昇華されたものであろうかと。


すなわち、98kさんのデフォルトスキルは「奪う」

しかも脊髄反射だったんですねっ(--ゞ
by 川端 (2009-12-19 21:25) 

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